みちてる、みちてた。

ここにいるのにここがどこだかわからなくなるから、書き留めています。Twitter→(@yoshi_mi24)

ヤモリ爆誕の夜。


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 出るんです。

 以前からヤモリが。

 たまに我が家の壁に。

 

 で、9/7(火)の夜。

 不意に廊下の壁に視線を向けると、いた。なんとも小ぶりで可愛らしいヤモリがいた。

 

 

 足音を立てないようそっと近づいてみたものの、自身の身体の何倍あるかもしれない人間の気配を察知したヤモリンは、チョロチョロ足を動かしながら小走りで遠ざかっていった。

 ああ、その全力でバイバイするような「小走り」がまたキュン♡を誘う。

 

 ヤモリが家の中に現れたとしても害虫を食べてくれるありがたい存在なので、特にこれまで外へ逃がしたことはない。この日も、「またよかったら姿見せてね」と手を振り私たちは別れたのであった。

 

*****

 

 翌々日7/9(木)の夜。

 再びヤモリンは廊下の壁に姿を現した。

 

 あら、あんなところに黒いシミが……と思いきや、一昨日の7日に見たのと同じ小ぶりなヤモリンが張りついていたのである。壁からちょこっと顎を浮かせ、つぶらな黒いおめめは照明を反射させているためか煌めいていた。

 

 この日も全力でバイバイするような小走りを見せてくれる。

 

「今夜も会えたね」

 

 キャッキャと興奮する私をよそにヤモリンは壁を上ったり下ったり、右へ行ったり左へ行ったり。結構長い時間廊下の壁をうろちょろしていた。

 

 もしかして外へ出たいのかな?

 

 ヤモリンの様子からそう覚ったときには、すでに私の視界から姿を消してしまっていた。いったい普段はどこに身を潜めているのだろう。

 

*****

 

 またしても前回から翌々日9/11(土)の夜。

 ヤモリンは目の前に現れた。まさに目の前、である。

 19時ごろ、すっかり取り込むのが遅くなった洗濯物を片手に部屋の中へ戻り、窓を閉めるとちょうど私の目の高さの位置にヤモリンが張りついていたのだ。

 

 ビビりな私は「うをっ!」と一瞬雄叫びを上げてしまったが、「ヤモリンやっぱり外に出たいんじゃないの?」と問いかけてみた。当然返事はなく、顔を覗きこんでくる巨人に対する警戒心全開でガラス窓の表面を小走りに進んでは止まり、進んでは止まる。まるで窓拭きを極めた爬虫類を見ているかのようだった。

 

 ヤモリを眼前に「可愛い」とかほざいているくせに捕まえる勇気を持ち合わせていなかった私は、ハンガーで窓の外へ誘導してみたのだが、なんせうまくいかない。仕舞いには、背伸びしても見えない窓の上の溝に身体を滑り込ませてしまったため、誘導作戦は断念した。

 

 断念してから3時間くらい経ったころだろうか。

 居間で母とふたりして、たけしさんと安住さんがMCのニュース番組を観ていた。CM中、ふと居間のカーテンに目を向けるとまたしても私は発見する。

 

「お母さん、ヤモリがそこにいるんだけど」

 

 視力の悪い母が目を細める。ヤモリンは、カーテンのシワで出来た溝にぴたりと身体をフィットさせてじっとしていた。

 いつの間に、こちらの部屋まで移動してきたのか。カレらは足音をいっさい立てないゆえ、発見したときにGと見間違えていちいち雄叫びをあげてしまう。

 

「ああ、いるね」

「出口探してるのかな。逃がしてあげたほうがいいよね」

「逃がしてあげようか」

「では、お願いします……」

 

 さりげなくボックスティッシュを差し出す娘の姑息さを非難するでもなく、母はヤモリンをティッシュで包もうと果敢にトライしていく。

 しかし、「そこじゃないよ」という場所に狙いを定める母。カーテンがゆれると同時にヤモリンはするすると移動してしまった。

 

「や、やっぱり私がやります!」

 

 言葉とは裏腹にビクビクしていたが、思っていた以上に母の視力は悪かったのだと知った切なさでボックスティッシュを差し出した姑息さを恥じていた。

 

 窓の縁でじっとしてくれていたせいか、思いのほか一発で私はヤモリンを掴むことができた。ティッシュペーパー越しにモゾモゾ動いているのが伝わってくる。自分より遥かに小さな生き物を扱うときの力加減は、とても神経をつかう。

 

 はやく窓を開けて外へ逃してあげなきゃ、と焦る私をよそに母がどこからかプラスチックのケースを持ってきた。

 

 私も母も、5日間我が家に滞在していたヤモリンに情がわいていたのである。

 外へ逃がす前にプラスチックケースに移したヤモリンを、5分ほど私たちは眺めていた。

 

 ステファニー(愛猫)が亡くなってから、こんなふうに生き物を愛しく間近で眺めるのは久々だった。申し訳ないことに、ステファニーはヤモリによくちょっかいを出していたけれど……。あれがヤモリンのご先祖さまだったらごめんなさい。

 

*****

 

 ヤモリンをベランダから外へ逃したあと、私は居間でひとり本を読んでいた。

 内容が頭に入ってこなかったのは、なんだか急に寂しくなってしまったからだった。

 この5日間、どこに現れるか読めない夜行性のヤモリンを、夜中に目が覚めたさいはわざわざあちこちの壁を見渡し探していた。姿に、仕草に、とても癒やされていたのだろう。

 

 もうちょっと別れを惜しんでもよかったかもなあ。

 

 と本から顔を上げたとき──。

 

 信じられないことに、居間の壁の低い位置にいた。ヤモリンがいた!

 およ? ヤモリン、か? さっき逃したあのヤモリン、なの、か? キミは!?

 

 咄嗟には理解できなかった。

 

「えっえっえっえっえっえっえっ、戻ってきたの?」

 

 当然返事はない。

 顔を近づけて凝視してみる。サイズは小ぶりだし小走りの仕方も一緒だし、ヤモリンと同じ個体にしか見えなかった。というか、「見分けがつかない」が正確なのだろう。

 

 すでに時は深夜1時。

 母は就寝していたのだが、「居間にヤモリがいた」と一応報告すると「まだいるんだよ」とうわ言のような返事が返ってきた。

 

 高揚と妙な気分が入り混じるテンションを落ち着かせるため、私もそろそろ寝ようと考えた。

 居間に降臨したヤモリンなのか別個体なのか判然としないヤモリも、棚の裏へ隠れてしまったことだし。寂しさが募るあまり、幻覚を見た可能性だって無きにしもあらずなのだ。

 

 寝室へ行き布団の中へ足をすべらせ、消灯するべく電気の紐に手を伸ばしたときだ──。

 

 いる、ではないか。天井に。ヤモリンがいるではないか!

 

「あなた瞬間移動できるの?」

 

 もう何がなんだかわからなかった。

 いや、本当はなんとなくわかった。ただ想像すると複雑な心境になった。

 我が家でヤモリが爆誕しているのではなかろうか、と。

 

*****

 

 「ヤモリ」は漢字で「家守(屋守)」と書く。

 読んで字のごとく、家を守ってくれる縁起のいい生き物とも言われている。

 

 でもなんだか……そんなありがたい存在が我が家の一隅で爆誕しているかもしれないとなると、縁起がいいわるいの次元ではない気がしてくる。人間にとっての害虫であり、カレらにとっての食料が豊富な家なんじゃないかココは、とか。うむ、やはり複雑だ。

 

 しかもよかれと思い一匹外へ逃したけれど、ヤモリからすればはた迷惑な行為でしかなかったならば罪深いとも思う。家族の仲を引き裂いてしまった可能性がある。

 ごめん、マジでごめん。どうかたくましく生き抜いてほしい。

 

*****

 

 現時点で最後にヤモリを目撃したのは、昨日9/13(月)の早朝5時前に一匹。

 1日置きに姿を見せるのが、カレらのスタンスなのかしら。

 

 しばらくヤモリ一家との共同生活を楽しんでいきたい。

 

ノートに書き残すのは「知りたくて、取り入れたくて、活かしたいから」内側に。

 書くことが好き。字は汚いし、要点は絞れないし、呆れるほど時間がかかるけれど。

 

 主に本の内容を書き残したくなる。

 

 勉強をしてこなかったこと、学歴・学力コンプレックス、また「忘れやすい」と「覚えられない」を発動しやすい性質に劣等感がある。だから賢くなりたい憧れが強いのだが、それより何より自分の内側に取り込みたいのだ。

 

*****

 

 人に言われてはじめて気づくことが多い。「押してダメなら引いてみる」の発想が思いつかず、押したまま日が暮れるタイプである。ゆえに、「引いてみたらどうだろう?」と己にはない視点からの助言に感銘を受け、大げさなくらい放心して立ち尽くしたりする。(ときに助言をもらっても、意地になって押し続けるようなひねくれ者でもある)

 

 しかし悲しいかな、「押してダメなら引いてみる」を異なる場面では応用できない。そのときと同じシチュエーションであれば「あっ!」と気づける可能性はあるが、臨機応変に対応するのが苦手なのだ。

 

 私の頭にどれくらいの知識が蓄積されているのか謎だが、フォルダ分けができていないように感じる。「すべて」がとは言い過ぎだと思うけれど、大半が個別案件として収納されているような感覚……って伝わるでしょうか?

 

 たとえば、どなたかの偉人伝を読んだとする。同じ人物についての偉人伝を5冊読んだとき、それを統合する力が乏しい。つまり偉人Aさんのフォルダに5冊をまとめて収納できず、一冊一冊を新刊コーナーに並べてる感じ……って今思いついたこのたとえが伝わる気がしなくて、下唇を噛み締めています。

 

 あとはよく、自分の脳内倉庫が穴の空いた水風船みたいに感じる。聞いたそばからピューピュー情報が漏れ出ているんじゃないかと。

 だから書き残したくなる。この内容をもっと知りたい、己の内側に取り込みたい、活かしたいし忘れたくないと書き残す。

 

*****

 

 現在は、伊藤亜紗さんの『手の倫理』をノートに書き残している。



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 知りたくて、取り入れたくて、活かしたくて内側に。

 

 おそらく、書き残しても忘れてしまうのだろう。自分の文字を読み返したときには、まるではじめて読むような新鮮な気持ちで感銘を受け放心するにもかかわらず、哲学者ひとりの名前すら覚えていられなくて、しまいには書き残したルーズリーフをどのファイルに挟んだのか、頭の中だけではなく実物のファイル分けもうまくいかない。

 

 忘れたいわけでも覚えたくないわけでもない。忘れたくなくて覚えていたいから、書き残す。感銘を受けたその瞬間にも嘘はない。なのに、漏れ出ていく。自ら逃してそのまま忘却したい出来事ほど、よく覚えているのはどういうことだろう。「理不尽じゃないか」と自分にクレームをいれたい。

 もちろん「すべて」がこのケースに当てはまるわけではないにしても。

 

*****

 

 伊藤亜紗さんの『手の倫理』という本の存在は昨年から知っていた。どなたかがTwitterで記した感想が流れてきたのをきっかけに、著者である伊藤亜紗さんの存在が気になるようになった。

 

 先日『ひび割れた日常』という奥野克巳さん、吉村萬壱さん、伊藤亜紗さんによるリレーエッセイ形式の本を読み、「( ゚д゚)!」←まさにこんな顔になった。

 

 

 お三方の専門分野は異なるものの、それぞれの視点から引き出されるエピソードには点と点を結ぶような発見があり、「押してダメなら引いてみる」に行き着かない思考回路を持つ自分には強烈な面白さだったのだ!

 この余韻が冷めぬうちに、伊藤亜紗さんの『手の倫理』を読みたくなった。

 

 『ひび割れた日常』の中で伊藤さんは、類似性にすがることにより人は相手を排除しようとする反面、似ていない相手とのあいだに類似性を見つける能力も私たちにはあるといった内容を記されていた。

 そして同書で、実際に伊藤さんのエッセイから「類似性を見つける」姿勢を見たのだ。

 

*****

 

 本日1時間半ほど、福祉関係の方と話をしてきた。

 

 自分の体調や通院歴などを自分の口から説明する必要があるのだけれど、もはや私は私が普段どんなふうに生活しているのかそれさえも咄嗟に思い出せない。

 

 日記を書いているにもかかわらず、毎日肝心な記録をしていないような気がしてならないのだ。いつも“肝心な何か”が漏れ出てしまっているのではないか。そんな自信のなさがさらに、自分を説明できなくさせていく。「これで合ってますか?」と逆に尋ねたくなる。相手は初対面の人だというのに。

 

*****

 

 書くことが好き。字は汚いし、要点は絞れないし、呆れるほど時間がかかるくせに書いたことすら忘れてしまう可能性が高いけれど。

 

 感銘を受けたその瞬間に嘘はないのだから。

 

 

顔を近づける。


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しゃがんで顔を近づける。

「周りにいっぱい仲間がいるね」

 


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持ってた傘を股に挟み、そっと顔を近づける。

「蜜を吸ってるの?」

 


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荷物を置いて、軽く息を止め近づいていく。

覗き込むように顔を寄せ、仕草を眺める。

「羽をスリスリさせてるね。あなたも蜜を吸ってるの?」


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間もなくやって来たのは、

「友達? パートナー?」

 


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一度通り過ぎ、引き返して顔を近づける。

あじさいみたいな形をしてるね。次回会うときまでには、ちゃんと名前を覚えておくよ」

 

*****

 

散歩の途中。

時間や周りの目を忘れられる貴重な時間。

カメラのピントが合ってないのが残念だけどね。

やさしい時間をありがとう。

 

※動画も撮ってみました⬇

 

 

 

 

神棚(仮)にある2冊。

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 我が家の神棚(仮)には、本が添えられている。北大路公子さんのエッセイ『流されるにもホドがある』と浅生鴨さんの小説『猫たちの色メガネ』の2冊だ。

 2冊とも私が購入した本であり、神棚(仮)に添えたのは母である。

 

*****

 

 昨年入院・手術をして以降、日常の行動範囲が狭まってしまった母は、家の中で過ごす時間が多くなった。思うように身体を動かせないもどかしさから、気力がわなかい日もあるだろう。本来なら今年は、母の田舎へ帰って一緒にお墓参りへ行きたいところだったが、社会的状況が状況なだけに遠出は難しい。

 

 何か家の中で楽しめるものはないだろうかと考えたとき、私に思い浮かぶのは読書しかなかった。

 

 しかし、母に読書の趣味はない。読書に限らず趣味を作るだけの時間がなかった、と言うのが正しいのかもしれない。他人には絶対に忙しなく働いているふうに見せない人なのだが、かといって家族にもそう見られたかったわけではないだろう。

 この辺りの話に触れると本題から逸れてしまうので、割愛する。

 

*****

 

 読書を提案したところ母も「読んでみようかな」と言うので、嬉々として真っ先に北大路公子さんのエッセイ『流されるにもホドがある』を差し出した。

 

 

 

 北大路さんが飼っていらっしゃる白猫の猫姐さんの魅力については、常々まるで洗脳するかのごとく母に伝えていた。ゲラゲラ笑いながら北大路さんのエッセイを読んでいた娘の姿も、チラチラ彼女の視界に入っていたと思われる。

 

 そうだ、笑ってほしかった。楽しんでほしかったのだ。自分が好きなもの、楽しんでいるものを知ってもらいたい気持ちが強かった。

 

 おかげさまで、母も笑いながら読んでいた。

 つい先日知ったのだが、一度読み終えた『流されるにもホドがある』を母は再読し始めたらしい。眠れぬ夜に読んでいるらしい。楽しんでもらえて嬉しい。著者でもないのに、生意気にも聞こえるようなこと言ってごめんなさい。だけど本当に嬉しかったのです。

 

 

🐾🐾🐾🐾🐾

 

 

 次に差し出すなら、浅生鴨さんの『猫たちの色メガネ』にしようとこちらも早々に決めていた。

 

 

 

「決めていた」なんておこがましい限りだけれど自分が読んだとき、不思議で滑稽な人間世界につい口元を緩めている自身の滑稽さに気づいてゾクッとした感覚が忘れられられずにいた。

 そして、ストーリーの発想がどこからくるんだろうと昨年母にチラと話していたのを思い出した。

 

 

 本書にはショートショートが27本納められている。1編目の『誰よりも普通』(自分はアンドロイドだと言い張る幸彦の話)にはクスッとしていた母も、何編か読み進めていくうちに「この話はどういう意味だろう」と頭をひねり、すべてを読み終わったときには「どれもすごかった。短い話だけど、どれも最後はちょっと……アレなんだね」と語気を弱めた。

 

 母の言う「アレ」が私の得た「ゾクッ」の類なのかどうかはわからない。奇妙な世界に迷い込んで右往左往しているのも、それを塀の上や足元で眠たそうに眺めているのも己であり己ではないような、そもそも感じた「ゾクッ」を私も正確には言い表せなくてずっと迷い込んだままなのだ。

 

 だから母に胸中を打ち明けようとするとき、言い表せず迷い込んだままでいることを知ってほしいと甘えたくて知られてたまるかと癇癪を起こしそうで、流したくない涙がボロボロ流れてくる。母も母で「アレ」の深いところを私に伝えようとして、こちらが先に泣き出すものだから語気を弱めてしまうのだろう。

 お互いに深い部分へ立ち入っていいものか普段から躊躇する姿勢が、本の感想を伝え合うところで露呈したような気がした。

 

 だけどやはり、自分が大事にしているものを共有できた喜びは大きかった。私が持っている本を母が読んでくれる日が来るなんて思ってもみなかったから、素直に嬉しくて仕方がなかった。

 

*****

 

 読み終えた上記の2冊を母が神棚(仮)に添えているのは、本が汚れないように配慮してくれているからだろう。私もはやく収納BOXに戻せばいいのに、わざわざそうしないでいる。父が亡くなって以降、思い出と化しそうなものにやたらと感傷的になってしまう。

 

 ところでなぜ神棚に「(仮)」がつくのかについては、経緯を記せばこれまた話が逸れるので割愛する。

 

*****

 

 ふと思い出したので追記したい。

 

 小学生のころ(恐らく5年生くらい)、海外の児童文学は学校の図書室で手に取っていたものの、日本の小説については何をどこから読んでいけばいいいのかさっぱりわからずモヤモヤしていた。

 小説や歴史については父親が詳しいとわかってはいるのだが、父に質問するのは気が引ける。二言目には「そんなことも知らないのか」の言葉で封じ込められてしまいそうな気がして、こわかったのだ。

 

 そのため母に訊ねることにした。

「日本の小説は、どれを読めばいいのかわからないから教えてほしい」

 とかなり直球で訊ねた。

 

 すると母は野菊の墓をすすめてくれた。「いい話だよ」と言い、なおかつ「映画では松田聖子が演じていてね」という豆知識まで提供してくれる。

 松田聖子が演じたいい話、に当時はあまりピンとこないまま図書館で『野菊の墓』を借りて読んだのを覚えている。そして、自分には難しかったなあとガックリしながら返却しに行ったのも覚えている。

 

 もしかしたら母も、本の選び方がさっぱりわからなかったのではないか。いつだったかもう成人になってからの話だが、「どうやって読みたい本を選んできてるの?」と母に訊かれた記憶があるのだ。確かに私は、いつしか自然に手を伸ばせるようになっていた。

 

 「わからない」感覚がわかるからこそ、そこから母が絞り出してすすめてくれた『野菊の墓』を猛烈に読みたくなった。一瞬すすめられたのは『路傍の石』だったかなと迷ったが、「松田聖子 映画」と検索できたおかげで『野菊の墓』だと確信。ゆえに早速、一昨日図書館で借りてきた次第である。

 

 

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児童コーナーをうろつき、青い鳥文庫を手に取る35歳。

 

 政夫と民子の初恋に、泣いた。

 まさかと思ったが、頬を濡らしていた。 

 政夫より民子の方が年が上だからという理由で、ひきさかれてしまったふたり。学問に励む政夫も渋々嫁に行った民子も、お互いに揺るがない確固たる想いを胸の内に秘めて過ごしていた一日の終わりを想像すると、いたたまれなかった。

 

「お母さん、このたび20数年ぶりに『野菊の墓』を読みました。すすめてくれてありがとう。いい話だった」

 

 随分遅くなってしまったが、お礼を言いたい。

 

 

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事業所見学&体験してきました。


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 先月の7月、第2週目。就労継続支援B型事業所へ見学に行った。

 今年の春頃に生活・金銭面での不安がぐわっと襲いかかってきたのを、心理士さんに相談したことにより「事業所見学」の話が浮上したのである。これを機に、小学生のころから家庭内の金銭問題でメンタルがグラついていたこともカウンセリングで打ち明けられたので、ある意味いいきっかけになった。


✽春頃のブログ⬇

 

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*****

 

 緊急事態宣言が明けるのを待って見学へ行くも、直後に再び緊急事態宣言期間へ突入してしまったため、体験の申し出をしていいものかこの1ヶ月迷いに迷った。

 

 何だかんだでもう4年くらいひきこもっている自分が、コロナ禍の今動き出そうとするのは迷惑なんじゃないかとか、間違っているんじゃないかとか。「不要不急」は、存在としての私に突き刺さってくるフレーズだった。私が行く買い物や散歩、病院も何もかもが、コロナが蔓延し始めた当初から「不要」である気がしていた。どこにも属していないのは、どこにも存在していないのと同じようなものと言われたら反論ができなかったと思う。そこに都合よく身を潜めてきたのも事実だから。

 

 タイミングを計れないないまま時間だけが過ぎ、コロナは落ち着くどころか日に日に陽性者数が増していく。しかも過去最多まで記録する状態に突入しますますタイミングを逃していった。

 が、ここから脱出したい気持ちがあるのは確か。というか、見学に行った事業所のブログの最新記事に笑顔で体験している人の写真が掲載されていて、「あ、あたいはいったい何をこんなにも悩んでおったんじゃろか……!?」とアッパーをくらった気分のあとでニョキッと覚醒したのである。

 

*****

 

 前置きが長くて恐縮ですが、先週体験に行ってきました。このような状況下にあっても、受け入れていただけました。

 たった2時間の体験。それでも今の自分には濃厚な2時間だった。自分から声をかける勇気がないまま終わってしまったけれど。

 

 通所するための手続き等は、これからです。

 そして、事業所へ通えば金銭面が解決するのかと言えばそんな簡単な話ではないことも痛いほどわかっています。自分の体力に合ったペースで、家以外に居られる場所を確保しつつ社会参加していきたいと考えています。

 

 紆余曲折しまくりながら生きていきます。

 

 

続く自粛生活に『あんぱんジャムパンクリームパン』を読む。

 今日は『あんぱんジャムパンクリームパン 女三人モヤモヤ日記』を読んでいました。

 昨年から新型コロナウイルス感染拡大により始まった自粛生活と誰もがはじめて経験した「緊急事態宣言」。不安や迷い、新たな生活スタイルへの戸惑いなどを青山ゆみこさん・牟田都子さん・村井理子さんの3人が交換日記(2020.4〜6)を通して綴っている一冊です。

 

 

 

 

 web上で連載されていたさい時々読んでいたので一冊の本になったときは、「あれから時は経ったんだ」みたいな気持ちだったと思います。

 それから更に時が経った現在、ワクチン接種まで進んでも変異していくウイルスに改めて脅威を感じるし、不安にならない日はないです。

 生活の中では個人的な悩みが当然発生してくるんだけど、口にするほどのことなのかな……って考え込んでしまう。だから、悲しみや苛立ちを隠さず文章に綴り、ときに新たな発見を教え合う3人の交換日記は、自分のやりどころのない葛藤をそっと受け入れてくれる貴重な場……というか本なんですよね。

 

 特に胸に刺さっているのは、青山さんが愛猫シャーちゃんの死を牟田さん・村井さんに報告している日の日記にあった文章です。

 

 最後に引用させてください。

 

──社会を揺るがす大きなニュースだけがわたしに重要なのではない。社会全体から見ればちっぽけなことかもしれないけれど、その小さな個人の想いが社会そのものなのだ。──

 (P131 「17 小さきものの呟き」より)

 

 今週は今週なりに葛藤していた自分を、「ちっぽけだな」の一言で私自身が済ませてしまわないようにしていこう🍀

 

懲りずに。【イラスト】

筥崎宮の鳥居


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 福岡県にある筥崎宮の鳥居を描きました。公式Twitterでアップしてくださっている写真が、いつも美しいのです。

 こちらのツイートにあがっていた写真を参考に描きました⬇(画力については後ほど触れますので、しばしお待ちを……)

 

 

 

 

 もう10年以上前になりますが、雲ひとつない青空が広がる初夏に筥崎宮へ足を運んだことがあります。

 当時、持病の手術を数ヵ月後に控えていたので足どりがフラフラしていたのですが、筥崎宮へお参りに行ったときに見た青空がものすごく澄んでいて清々しい気持ちになったのを覚えています。

 

 しかしアレですね。成長しないですね、画力!

 YouTubeを観たり借りてきた本を読んだりしても、応用力がない。勉強も同じだったと振り返って思う(゚A゚;) 学校のテストや資格の試験も。

 

 描いているときは気づかない。鳥居の高さも幅もまるで異なっていることに。線をまっすぐ描けていないことにも……。

 しかし写真は真実を写すものです。鏡で見る自分と写真で見る自分の姿が別人のように感じるのと同じで。(ではなぜ定規を使うなどの工夫をしないのか)

 筥崎宮の絵はどうかリベンジさせてください!

 

 

②リボン


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「ジェリービーンズみたいだね」との感想を母からいただきました。


*****


 集中する時間は心地よい疲労感を得られます。

 懲りずに描いて楽しみたいです。