みちてる、みちてた。

ここにいるのにここがどこだかわからなくなるから、書き留めています。Twitter→(@yoshi_mi24)

「お母さん、私はもう大丈夫」その一言を言えるようになりたくて。


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 中学1年のある日。

「一緒に死のうか」

 涙を浮かべた母は、優しくも震える声で私に言いました。

「公園で首をくくって一緒に死のうか」と。

 

 とんでもないことを私は母に言わせてしまった──。

 

 そう思えたのは、少し時間が経ってからの話。

 言われた直後の私は、「なんで私も一緒に死ななきゃいけいないの」と心外! とばかりに腹を立てていたのを覚えています。

 

 でも今なら、母の気持ちが痛いほどにわかるのです。わかるのに、未だに私は母にとって心配の種であり続けています。

 ごめんなさい。

 お母さん、ごめんなさい。

 

 母の発言をここに書いていいものか、迷いました。

 ただ私はあの日の言葉を忘れてはいないし、絶対に忘れてはいけないし、あれからずっとずっと母を安心させられるような人間にならなきゃって思い続けてきたのに道を外れてばかりいるものだから、結局あの日の母の提案を受け入れていた方が母にとっても幸せだったんじゃないか……とか考えてしまうのです。

 

 どんな風に人生を進めていけばいいのか、恥ずかしながら30を過ぎたこの歳になっても自分ひとりでは同じ沼にハマるばかりで抜け出せずにいます。

 

 どうにかもう沼にハマらぬように生きたい。

 母に、「もう私は大丈夫」と言える自分になりたい。

 時は刻々と過ぎていくばかりだから……。

 

 

【物心ついたときから不安と緊張の連続だった】

 

 幼稚園、小学校、中学校、高校……。

 クラスの輪に入っていけず内気な性格の私は、どの時代においても朝が憂鬱でした。

 母も人見知りが激しい私のことを不安に感じていたのではないかと思います。

 

◆目次◆

 

*家の外は恐怖、学校は不安な空間

 

 幼稚園のころ、「行きたくない」と泣き叫んでいた私は家から一歩外へ出た世界に恐怖を感じていました。

 

 集団の中で1日の大半を過ごさなければならない苦痛は、小学校も同じです。楽しい思い出も確かにありますが、進級するごとに口数を減らしていった私は自分の性格も容姿も声もすべてに自信がなく、意見を主張するのも他愛もない会話をするのもどうにか避けられないものかと、常にどんよりした心持ちでいました。

 席替えやクラス替えをしただけで気持ちが大きく乱れるし、学校という場所は「不安で仕方ない空間」だったのです。

 

 6年間も通っていながら教室で受けた授業の記憶が乏しいのは、その場に佇んでいるだけで緊張のあまりカチカチになっていたからなのでしょう。

 だけど、みんなそんなものだと思っていました。だから毎日明るく元気に通う他の子たちは、心がとても強いんだなあと自分の弱さにコンプレックスを抱いていのです。

 

 

不登校になるなんて

 

 そんな私は、中学1年の2学期から不登校になりました。

 入学当初は友達ができて楽しく過ごしていたのに、ここでも私を悩ませたのは〈席替え〉でした。席替えをしただけで、まるでこれまでの自分をもリセットされたみたいになってしまい、どうやって周りと距離感をはかればいいのか感覚が狂ってしまうのです。仲良くしていた友達に話しかけるタイミングもまったくわからなくなっていきどんどん距離が遠くなっていく一方で、押し寄せてきたのは不安と緊張、それから勉強にもついていけなくなっていた心細さでした。

 友達のグループ内にいてもひとり浮いている気がしてならず、次第に自分は邪魔者なのではないかと疎外感に苛まれるようになっていったのです。

 

 授業内で2人組にならなければいけないときにひとり余ってしまうのも恥ずかしかった……でも、恥ずかしいと感じているのを周りにさとられる方がもっと恥ずかしいから、平然としていたくて、そのうち友達にも笑顔を見せるのが苦痛になっていきました。

 

 また、担任の男性教師が苦手でした。

 たしか幼稚園のころに行きしぶりをしていた理由のひとつに、体育(体操?)を担当していた男性の先生の存在がありました。やはり苦手でな尚かつ恐れていたのです。

 「どうして?」と訊かれても答えに詰まりますが、なぜか大人の男性に対する苦手意識が強かったように思います。

 

 そして、ある日から私は学校へ行けなくなりました。

 

 どうしたって身体を布団から起き上がらせられないんです。

 学校を休むことは許されても、学校へ行かないという選択は許されないもの、そもそもそんな選択肢は世の中にないと思っていただけに、頑なに登校を拒絶する自分はとんでもない行動に出ているといった自覚はありました。

 

 当然、母からその理由を訊ねられます。

 訊ねられても、私は何も答えられませんでした。

 じっと黙り込んだまま、何が理由でこんなにも学校へ行きたくないのか自問自答してみるのですが、明確な理由が言語化できず、ただ頭に浮かぶのは「疲れた」の一言。しかしその一言を口にしていいものか、口にすれば自分の弱さを認めなければならず、変にプライドが高かった私はだんまりを決め込んで母をひどく悩ませていたはずです。

 

 本当に、ごめんなさい。

 母がどれだけ精神的に追いつめられていたことか、想像しようともせずに私はストライキを続行していました。小さいころから同年代の子とうまく馴染めないでいた私に、母だって言葉にしようのない不安を抱えていたと思うのです。

 

 私の不登校状態が続く中で、母が言いました。「一緒に死のうか」と。

 それに対して、痛くも痒くも感じなかった私はバカな娘でした……。

 

 2年生になって学校へ戻ってはみたのですが、再び不登校に。

 周りの目が怖くてたまらなかったこと、授業がまるで理解できなかったこと、男子から煙たがられていたことなどがあって、夏休みを迎える前に気力の糸がぷつりと切れてしまったのです。

 

 その後、私が中学校へ戻ることはありませんでした。いろんな人に迷惑をかけるだけかけたのだろうと、当時は目を瞑っていた現実を想像すると胸をかきむしりたくなります。

 やがて制服に袖を通す機会も少ないまま、中学時代は幕を閉じました。

 (中2の2学期半ばくらいから、フリースクールのような場所へ通うことによって出席扱いにしてもらっていました)

 

 

*過敏になっていく心

 

 高校時代もなんやかんやと問題が絶えず、ここでも行けなくなった時期がありました。環境の変化に対する弱さが拭えないらしく、クラス替えをしたときの宇宙に放り出されたような恐怖と孤独には一向に慣れなかったのです。

 

 周りが私の陰口を言っているのが直接耳に入ってくることもありましたが、「平然としてろ、無表情でいれば何とかなる」と言い聞かせていました。

 

 一言も話さないまま帰宅するのは当たり前で、このころから神経質な部分が増したように思うのです。

 まず、家を出てから何度もカバンの中を確認しないと不安で不安で仕方なくなりました。小さな物音にも敏感になって、特に電話の着信音やインターホンの音には心臓がビクッと跳ねるほど過敏になっていました。

 教室では、一度席に座ったらそこから一歩でも動くのが怖かった。一旦腰を上げてしまったら、再び着席するだけの気力と集中力を取り戻す自信がなかったからです。

 

 極度の緊張と不安から常に逃れられない毎日に、ようやく「これって、もしかしたら私だけじゃないのかも」と考えるようになりました。

 何がきっかけだったか社会不安障害という病名を目にして、自分にも当てはまるんじゃないかと思ったためです。

 

 病院へ行ってみるべきなのか……だけど、精神科なんて行くのが怖い。こっそり行けるものなら行きたいけれど、当時の健康保険証は一人一枚ではなく世帯で一枚だったため、家から無断で持ち出す勇気がなく断念しました。

 とにかく高校を卒業すれば少しは気持ちが楽になるだろうと、卒業だけを見据えた日々を地道に送りました。

 

 

*難病になってはじめて社会に出たいと思った

 

 18歳の終わりくらいから、体調が優れないなあとは気づいていました。

 幼いときから喘息やアトピーがあったので、まあこんなものかなとあまり深く考えていなかったのですが、のちに毎日熱が出るようになり、続く下痢と食欲不振、倦怠感やちょっと動いただけで電池切れみたいになっていく身体は、とうとう歩くのもつらくなり靴を履くだけで激痛が……。

 

 たまらず病院で検査入院をした結果、国から難病指定されている自己免疫疾患であると判明したのです。

 しかし難病がどうのこうのよりも、3ヶ月半続いた他人との共同生活(入院生活)は、人との接触が苦手な私にはまさに地獄のような日々。うつ状態になった私を支えてくれたのはやっぱり母で、当時記していた日記に「お母さん、ありがとう」を何回書いたことでしょう。

 

 もしも「人生の転機はいつだった?」と訊かれたら現時点で私は、この入院生活だと答えたいです。というのも退院するころには、「ちゃんと働きたい。社会に出たい。人が苦手な自分を脱却したい」と生きる目標を手に入れていたからです。

 母だけではなく、病院関係者の皆様からいただいた優しさも大きな力になりました。

 

 ──私はこれから、お母さんに恩返しをしていく。お母さんに美味しいものをたくさん食べさせてあげるぞー!!

 

 あんなにメラメラやる気に燃える自分を、私自身もはじめて体感しました。

(ちなみに、退院後も体調は不安定でこの約2年後には開腹手術を受けました。今年(2019年)の2月には長年続けていた治療薬を他の治療薬に変えたり、現在も治療は継続中です)

 

 

*社会に出る、うつになる、心療内科を受診する

 

 体調がある程度安定したかなというころ、私は就職に向けて動き出しました。

 役に立ちそうな資格を取ったりなんかした末、事務の非常勤職員として採用されます。

 でも、採用はゴールなんかではなくスタート地点に立ったに過ぎなかったんですよね……。

 

 仕事上の課題(壁)の数の多さを思い知らされたのです。

 

①仕事の流れ、システムの理解・把握が追いつかない。

②パソコン業務中、目の前の電話がいつ鳴り響くかそればかりに気をとられる。(電話が怖い)

③周りの視線が気になる。

④会議などで何が話し合われているのか要点がつかめず、議事録を書けない。(先輩にめちゃくちゃ助けてもらっていました)

⑤とにかく焦る、テンパる、ミスる。

⑥トイレで気合いを入れてからじゃないと上司や先輩に話しかけられない。

⑦ヒソヒソ声がすべて自分の仕事ぶりを批判されているように聞こえる。

⑧……って挙げたらきりがない!

 

 これはちょっともしかすると、、、

 人が苦手とかいうよりも致命的な問題が私にはあるんじゃなかろうか……

 と薄々感じている間に、ご飯が食べられなくなり、テレビの賑やかな音を不快に感じるようになり、虚しくて虚しくて職場で涙がポロポロ止まらなくなる現象があらわれ始めました。

 また、職場でも学校よろしく席替えが行われるとは想定外で、席替え案が出るたび心臓に釘を打たれるような恐怖で逃亡したくなっていた私は、ついに心療内科を予約したのです。

 

 このときはじめて「うつ病&社会不安障害」と診断されました。

 受診したその日から投薬治療を開始しました。

 はじめての仕事は約一年半で辞職に至ります……。

 

 

*30年生きてきた

 

 今日まで心療内科に通院しながら、転職を繰り返してきました。

 「今度こそは大丈夫」と意気込む自分に期待するたび自分で裏切り、きっと母も「今度こそこの子は大丈夫だろう」と安堵していたかもしれないのに、母をも見事に私は裏切ってきたのです。

 心療内科での治療は薬のみでやってきました。それだけで本当にいいんだろうか、とは最近になって思うようになったことです。

 

 ある出来事をきっかけに、この2年間ほど私はずっと塞ぎ込んだ生活をしてきました。

 もうどうにでもなれ、と諦めと惰性で生き延びていたようなものです。

 難病の方も数年間、炎症の値が高い状態だったので諦めモード一色でした。

 

 海の底へ沈んでいくのを待つか、重りをつけて自ら沈むか。どちらにしても地上へ出るつもりはもうないです……という気持ちで部屋の断捨離をしていました。

 

 30年生きてきて、結局私が好きだと言えるものって何だったんだろう。

 本棚にある本をも捨てる対象にするべく抜き取っていたとき、「これはダメ!」と大きな声が耳元で響いたように感じました。

 

 並んでいたのは、辻仁成さん、伊坂幸太郎さん、重松清さん、西加奈子さん、乙一さんといった作家さんたちの小説。

 

「ダメ、ダメ、ダメ、ダメ。っていうか、捨てるなんて絶対に無理!許さない!」

 喚いている声の主は明らかに過去の私でした。

 

 辻仁成さんの作品に希望を見た高校時代。

 伊坂幸太郎さんが作品を生み出し続ける限り、死んでなるものか! と誓った20代。

 残念ながら心療内科でお世話になるようになってからは活字を読むのが苦痛になり、読書はご無沙汰になっていました。

(この記事の最後に自分にとって「大切な作品」を3つ記載しています)

 

 断捨離のために久々に本の表紙に触れてみて、「私が好きなものはこれだった」と思い出したのです。読むだけじゃない、書くのも私は好きだった、と。

 

 

*克服を目指しながら私は書きたい

 

 近頃体調が思わしくない母を前に、私は内心ひどくうろたえています。子供のときから病気がちだった私は常に励まされる側の立場だったため、いざ逆の立場になってみると、「大丈夫……?」しか言えずにおろおろするばかりで情けないほど無力なのです。

 誰よりも大切な存在を裏切り続けて、「もうどうにでもなれ」なんてどの口が言うのか……。

 

 幸い今年から難病の治療薬を変えて、炎症の値が落ち着き始めました。

 精神的な面は浮き沈みがありますが、「このまま海の底に沈みたくはない」気持ちが顔を覗かせるようになりました。

 そこで思ったのは、ただただ投薬を続けるだけではなく、自分に合った治療や克服法を探るのを怠ってはいけないのではないか……ということでした。

 

・本当に私は、「うつ病」「社会不安障害」なのか。

・生まれ持った性格が強く影響しているのではないか。

・環境や経験が不安と緊張を生んでいるのではないか。

・はたまた他の病気の可能性もなきにしもあらずなのではないか。

 

 疑問があるなら探ってみよう。

 根本的な問題を私はずっとスルーしていたのかもしれません。

 

 ここに書き始めたことも、前向きな気持ちを後押ししてくれています。

 だって、書くって楽しいんだもの。

 私にも楽しいものがあったんだ! っていう喜びを再発見しました。

 目にした方からすれば、下手な文章で見苦しいかもしれませんが……。(どうぞ、呆れずお付き合いいただければ幸いです)

 

 もちろん私に限った話ではなく、「書くのが楽しい、好き、しんどいけど書かずにいられない」人たちが世の中には数えきれないほどいて、そんな人たちの記事が溢れている画面を見ると、孤独を忘れてホッとしている私がいます。

 

 だから私も、また書きたくなります。

 人が苦手なんだけれど、人に救われたから生きてこれたのだと実感しながら。

 

 

*最後に

 

 この自己紹介を載せるかどうかは、すごく悩みました。

 褒められるような出来事を何ひとつ成し遂げていないんですもん。各場面でいろんな人に迷惑をかけてきていますし。

 

 自分の尻を叩きたかったのだろうと思います。そして、この自己紹介を機に似たような状況で悩んでいる方との繋がりを持てたらありがたいな、とも思っています。

 

 最後まで読んでくださった方には心より感謝申し上げます。どうかこれからもよろしくお願い致します。

 

(2019.11)

 

 

❢追記❢(2020.3)

2020.1に受けた心理検査の結果、「ADHD」と判明しました。詳細は以下の記事に記しています↓

 

yoshi-mi.hatenablog.com

 

 心療内科に通院を続けながら、生活に工夫を取り入れていきたいと思います(*^^*)

 

 

★大切にしている作品(小説)★

 

・『愛をください』/辻仁成さん

高校生(たしか、17歳くらい)のときに、読みました。

そのときの衝撃といったら、もうっ!

読み終えた後、ノートに感情を書き殴った記憶があります。

どうしてそのノートを保管しておかなかったのか、今となっては残念で仕方ありませんが、「私も生きてていいんだ!」というフレーズを号泣しながら繰り返し書いていたのを覚えています。

あんなに、一冊の本を愛しく胸に抱きしめたのは初めての経験でした。

自分でも物語を書いてみたいという気持ちが芽生えたのは、この頃です。

実際に、学校では授業などそっちのけで小説構想用のノートを広げていました。

 

 

・『アヒルと鴨のコインロッカー』/伊坂幸太郎さん

読んだのは、21歳のときだったと思います。

読み進めるほど残りのページが少なくなっていくのがあまりにも寂しくて、この物語に終わりが来ないでほしいと強く願ったほどでした。

だけど、この作品を読み終えた頃には、それまで小説に対して持っていた固定観念が覆りました。

「終わりから始まる物語があっていい」

そんな風に捉えるようになったきっかけは、伊坂さんの作品にあります。

 後のページを閉じた後、「この小説の登場人物の物語は今もどこかで続いてるんだろう、いや、続いているんだ」という想像は、希望に繋がる貴重な体験となったのです。

 

 

・『火花』/又吉直樹さん

読んだ当時の私は絶望的に未来だけではなく現在をも諦めかけていました。もう息をしているのも憂鬱だな……という感じで。

数年前にピースのネタをよくYouTubeで見て爆笑していたし、又吉さんの独特な存在感に惹かれていたので、又吉さんが書く小説にも興味大だったのですが、芥川賞を受賞されたことで逆に手を出しづらくなっていました。

 

読み終えたときは、しばらく余韻から抜け出せませんでした。

コンビで最後の漫才を披露した徳永が、どんな思いでお笑い芸人の道に人生をかけ、結果が出ずとも膨大な時間を費やしてきたのか。ゾッとするほど、その覚悟が胸に刺さってきたのです。

どんな言葉も景色も響かない状態にいた中で、心を突き動かされた瞬間でもありました。