みちてる、みちてた。

ここにいるのにここがどこだかわからなくなるから、書き留めています。Twitter→(@yoshi_mi24)

ワンニャン・ディスタンス


f:id:yoshimi24h:20201216220519j:image

 

 

距離感に悩むのは、生きている証なのでせうか──。

 

◆目次◆

 

○ハチ公と我が家の猫は違う

 

 近頃すっかり私たちの生活に定着したフレーズのひとつに、「ソーシャル・ディスタンス」がある。新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐために、人と人との物理的な距離を保ちましょう! という意味で連日耳にしない日はない。

 

 まさか「星空のディスタンス」を歌うとき以外で「ディスタンス」なる英単語を日常的に使う日がやってくるなんて思ってもみなかった。(も、もちろん、宇多田ヒカルの「FINAL DISTANCE」だって、う、う、う、歌えるもんっ!)

 

 スーパーなどではレジに並ぶ列の足もとにテーピングが施されており、おかげで前に並ぶ人との距離を保ちながら安心して買い物ができるようになっている。

 

 このテーピングされた位置で足を止めるとき、私の耳の奥では決まって「待て!」の声が大きく響きわたるのだ。

 

 そして人間から「待て!」の指示を出される犬を思う。

 特に待たなくてもいいような場面でも「待て!」と言われれば黙って待つ犬を思い、その健気さに涙がこみ上げてくる。どうしてそこまで飼い主に従順なのか。渋谷で銅像とまで化したハチ公を思い出して、さらに泣けてくる。

 

 

 犬と猫では、人間との距離の取り方が違うんだろうなあ。

 

 

 ハチ公と先月亡くなった我が家の愛猫ステファニーの顔が、ふわんふわんふわんと頭上に浮かんだ。

 

 胸を押さえこみ、苦悶の表情を浮かべ床に倒れ込む──。

 私史上もっとも迫真の演技をステファニーの前で披露したとき、彼女は倒れた私をチラ見するだっけだった。

 「ヒマなのね」とでも言いたげに、前脚をペロペロ舐めていた。飼い主が倒れたときは猫でも心配して駆け寄ってきてくれる。そんな話をどこかで聞いたはずなのだが、どうもうちの猫は例外らしかった。

 

 くっそー、ハチ公だったらきっと! なんてあのときは恨み節を吐いたが、今ではステファニーのこちらを見透かすような眼差しが恋しい。

 

 私は猫の妙に冷めたところが大好きだ。

 

 

○犬の可愛さに心奪われる猫派

 

  1. 「ちゅ~る」のCMが流れるたび、嬌声をあげる。
  2. 岩合さんのネコ歩きを見ながら、画面に映る猫に話しかける。
  3. ドラマや映画に猫が出てくれば、もうストーリーなど頭に入ってこない。

 

 私が完全なる猫派なのは幼いころから猫を飼っていたからだろうし、庭に野良猫が侵入してくるのも日常茶飯事だったからだろう。猫と触れ合いたいと思えば、ちょっと散歩に出かけるだけで一匹や二匹は簡単に見つかる。お気に入りの野良猫出没スポットを子どものころから把握していた。

 

 逆に、犬と接点を持つのは難しかった。

 さすがに野良犬は見かけないし、ペットショップへ行かなければ飼うこともできないのだと思っていた。

 

 

 なんとなく犬は敷居が高い──。

 

 

 そんな風に感じていたから、ますます猫が身近な生き物に思えたのかもしれない。

 やがて猫の自由気ままで束縛を嫌う性格が自分にそっくりだと気づき、さらに愛着が増していき現在に至るわけだ。

 

 犬は犬で可愛い。

だけど、すっかり猫に浸ってきた人生なのだ。今さら我を忘れるほど犬に惚れこむ瞬間など来やしないだろう。

 私には揺るぎない確信があった。

 

 

 

 と・こ・ろ・が・!

 

 つい先日、惚れこむ瞬間がやって来た。

 まさに骨抜き状態にさせられたのだ。

 ハッとした。ハッとしたときには、すでに10回くらい「可愛い」を連呼しながらため息をついていた。

 

 猫を20匹ほど飼っているご家庭が、新しい家族として子犬を出迎える場面をテレビで観ていたさいの出来事だった。

 20匹もの猫と暮らしているのだから、その方は猫好きに違いない。なのに新しい家族が子犬という展開に私の頭は「?」でいっぱいになったが、例の子犬が、ああ、この例の白い子犬が……、めちゃくちゃ可愛かった。

 

 コロコロふわふわした体。夢中でおもちゃを追いかけ走り回る姿。飼い主さんのもとに駆け寄ってくるなりお腹を見せてゴロン。

 猫とは異なる仕草がいちいち愛らしい。

 

 ヤバイ、犬が可愛いんだけどっ!!

 

 いやいや、犬が可愛くてヤバイことなんて何ひとつない。ただ長年猫しか眼中になかったものだから、突然眼中に入ってきた犬に戸惑うばかりだったのだ。

 

 あら、あら、あら、あら、と戸惑う間に忘れ去っていた記憶の扉が少しずつ開き始めた。

 

 どうやら私、犬との触れ合いが皆無な人生ではなかったらしい。

 

 

○私にもあったぞ! 犬との思い出

 

【思い出①】

 犬をなでていた記憶がある。幼稚園のころだっただろうか。

 

 場所はガソリンスタンド。

 親がよく利用していたガソリンスタンドに、犬がいた。とってもおとなしい大型犬だった。

 その大型犬をなでるのと車の後部座席に座ったまま洗車機に入るのが、あのころの楽しみだった。ガソリンのにおいを嗅ぐとノスタルジックな気持ちになる理由がここにあったのか、と腑に落ちる。

 

 

【思い出②】

 次にある記憶は、小学校時代。

 歯をむき出してこちらを威嚇してくる犬の顔が浮かぶ。

 

 当時住んでいた家の近所で飼われていた中型犬である。

 今では考えられないが、放し飼いにされていた犬だった。

 

 そうそう、あの犬に出くわすのは恐怖だったんだ。なぜなら人間の子どもが大嫌いな犬だったから。子どもにいじめられたトラウマがあるらしく、とにかく目が合うと唸り出す。歯と歯茎をむき出しにして、狂犬と化す。

 

 学校からの帰宅途中、狂犬と化した彼に出くわしてしまったことがあった。一対一で、進むも逃げるも地獄のような状況に私はたまらず泣き出した。泣きながらどうにか家に帰った。

 

 こんな衝撃のでかい記憶が、なぜ薄れていたのだろう。小学生の私には非常に悩ましい問題だったのに。(というか、ご近所から苦情が来なかったのだろうか)

 

 敵意をむき出すほどのトラウマを負ったあの中型犬も、生きづらさを抱えていたのかもしれない。癒してくれる存在を日々求めていたんじゃないか、とは今だから想像できることだ。

 

 

【思い出③】

 高校時代の記憶にいる犬は、トラウマを持つ中型犬とは真逆の印象だった。

 

 子猫見たさにペットショップへ立ち寄ったさい、犬と触れ合えるコーナーを見つけた。

 楽しそうだったので幼い子たちに混ざり、そろそろと私も近づいてみた。柵を隔てた先に、大きな瞳をうるうるさせたチワワがいる。成猫よりも体の小さなチワワは、ぬいぐるみみたいでとても可愛かった。

 

 触れ合いOKなら、ちょっと抱っこさせてもらおうかな──。

 

 猫を抱っこするときと同じ感覚で、手を伸ばしたときだった。

 はちきれんばかりにしっぽを振るチワワが、私の指をペロペロ舐めてきたのだ。まるで「はやく抱っこしてよ!」とでも言うように前脚をあげて、それはそれは大興奮していた。言うなれば、完全ホームなウェルカムモード。

 

 なのに私は手を引っ込めてしまった。後ずさってしまった。 

 

 慣れていなかったからだ。これほど歓迎される空気に。

 私はここまでウェルカムされるような人間ではない、と咄嗟に自ら距離を置いてしまったのだった。

 ここでは私のトラウマが壁となった。

 

 触れ合おうと近づいていったのはこちらなのに、受け入れられるとわかるなり急に不安でいっぱいになる。己の自信のなさに耐えられなくなる。

 

 相手が人間だろうが犬だろうが高校時代から、いや、それ以前からこのスタンスで私は生きていた。

 ごめんなさい、あのときのチワワちゃん。。。

 

 

○みんなみんな探っているの、絶妙な距離を

 

  • 犬は従順。
  • 猫は気まま。

 

 人間の、というか、私の勝手なイメージ。様々な方面から得てきた情報で作り上げてきたイメージ。

 

 本当のところはどうなのだろう。

 猫が気ままなのは一緒に暮らしてきて実感する場面が多かったけれど、気ままな態度をこちらが求めている部分もあった。犬に関しては①~③の思い出を振り返る限り、それぞれが「事情を抱えてるんです……」と半透明な心のプラカードを掲げていたように感じられる。

 

 だよねえ。生きている環境によって表情や態度が異なるのは、人間だけじゃないよね。

 

 きっと、探っている。犬や猫も、「人間ってヤツはどう動くんだ」と探りながら距離を掴もうとしている。だって彼らはときおり、空気まで読んでくれているではないか。キミたちを「可愛い、可愛い」ともてはやすばかりで、ホント申し訳ない。

 

 

 ……と思いをめぐらし、今日も私はテーピングされた位置に立ち止まってレジ待ちの列に並ぶのであった。