みちてる、みちてた。

ここにいるのにここがどこだかわからなくなるから、書き留めています。Twitter→(@yoshi_mi24)

絶望の縁で足を踏み外さぬよう書き留めていたい、「何事」を。


   f:id:yoshimi24h:20201216143528j:image

 

 小学校のとき教室でテレビを観る機会があった。授業中だった。なんの番組だったのだろう。さすがにそこまでは思い出せない。

 

 画面に映し出されたのは、バカルディ(現在の「さまぁ〜ず」さん)だった。

 私はあの瞬間、全身の力が抜けて心底ホッとしたのを覚えている。

 

 常に緊張と不安がとけない教室で、普段家でリラックスしながら笑い観ているお笑い芸人さんの姿を目にできたからだ。

 

 顔がほころぶのが自分でもわかった。

 大げさに聞こえるかもしれないが、しばらく離れて暮らさざるをえなかった母親と再会できたときのような安堵感で私の心は満たされていたのだ。

 

 教室でテレビが流されたのは、10分程度だったと思う。

 たった10分間目にしたバカルディのふたりが、小学校6年間の思い出にきっかり含まれている。隣の席に座る同級生よりもバカルディに親近感を覚えていた私は、言わずもがなテレビっ子だったのだ。

 

 それからは教室の天井からテレビがぶらさがっているのをちらと視界の隅にいれることで、冷静さを手に入れる技を学んだ。

 ありがとう。あのときたまたま教室のテレビに登場してくれたバカルディのおかげで、はち切れそうになっていた小学生時代の私の心は救われた。

 

 

*****

 

 

 1週間前。

 先週の火曜日。

 

 どうにもこうにも……な感じだった。

 虚無感が波紋のように広がり、どこまでもどこまでも岸にたどり着く様子がない。

 ぶつかりどころが見つからず、永久に広がり続けていきそうな手の負えなさがいたたまれなかった。

 

 気分を紛らわすように突然夜中に思い立ち、ベッドの上でノートに自分が大切にしている“記憶”と“思い出”を書き出してみた。

 

 ペンを置くころには「私、元気になりたい!」と涙をこぼしていた。泣きながら何度も「元気になりたい!」と唱えていた。

 

 感謝している人がいるのだ。

 再び訪れたい場所があるのだ。

 もう一度食べたい料理があるのだ。

 

 それからニッと笑って「ありがとう」を過去に向かって放った。

 確かに生きてきた過去があることに救われてきた。

 いつ何時も救われてきた。

 

 

*****

 

 

 いつかは処分したいと心の隅で考えていた、歴代のガラケー

 

 それについては先日、記したばかりだ。

 

 

yoshi-mi.hatenablog.com

 

 

 ガラケーに保存されていた写真の大半が、愛猫のステファニーだった。現在使っているスマホにもステファニーの写真は保存されている。だけどまだ若かりしころでちょっとふっくらしていたり、近所の公園のベンチで伏せをしていたりする姿には初々しさがあった。この2〜3年の彼女とはまた別の、異なる表情のオンパレードである。

 

 もう我が家にはいないステファニー。

 悲しいかな、些細な仕草を忘れそうになっていく。

 でも、14年間一緒に暮らしてくれたのだ。ありがとう。本当にありがとう。

 虚無に染められた中にいたからこそ、元気だった時代のステファニーの写真を目にし、寂しさどころか笑顔であふれた。

 

 嬉しかった。

 野良猫に喧嘩をふっかけたり、木に登るおてんば娘だったあなたを再度この瞳に刻めるなんて。ステファニーの存在に幾度と救われてきた。たぶん、ううん絶対、あなたに救われる瞬間はこれからも継続して起こるのよ。

 

 

*****

 

 

 間もなくして、終わりが見えず心もとなさを誘うばかりだった波紋の広がりが、パシャリと跳ね返るような小さな音を立てた。

 どこか遠くの岸までたどり着いたらしい。

 

 やがて一方通行だった波紋の流れに抗うかのごとく、小刻みな波と共に目の前の水面がゆらめき始めた。

 ゆらゆらぴちゃぴちゃ。

 はしゃぐように踊るように。

 

 止める手立てもなく倒れるドミノに似たスピードでスーッと遠ざかっていった波紋だったのに、再び私の足元まで押し戻され、何事もなったかのように水面は穏やかにゆらめいている。何事もなかった、かのように。

 

 

*****

 

 

 誰しもの人生、何事もないはずがない。

 命を宿された瞬間から、「何事!?」と大声で問いたくて問えない間に疲れ果ててうとうと眠ってしまうんだろう。

 目を覚ましたときには母親の乳を探るのに必死で、次に目を覚ましたときには自分でコップに水を注げるまでになっていた。

 

 当たり前に過ぎる日常で各々が各々の「何事か」を経験していく。一喜一憂するたびに心の水面では波紋が広がりゆくのに、何事もなかったかのような顔で日常に身を置き歩みだす。

 

 何事かはある。

 忘れたいことも、抱きしめたいことも、葬りたいことも、優しくなれることも。

 

 そして私には、絶望に侵食されそうな「何事」が起きたとき、必ずと言っていいほど日常へと掬い上げてくれる「何事」の“記憶”や“思い出”がある。

 

 そんなにも大切な「何事」があるにもかかわらず、私は毎回思い出し方を忘れる。取り乱しているときは、同じように取り乱していたときの記憶ばかりが想起されるから、自ら絶望の縁へ近づいていってしまうのだ。

 

 絶望の縁で足を踏み外す手前で、思い出したい。

 だからこうして今日も、書き留めずにはいられないのだろう。