みちてる、みちてた。

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リフレインする「大丈夫」。〜記憶のエアポート〜



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1998年のエアポート

 

 父の運転する車が向かうのは、羽田空港

 11月の早朝。夜明けはまだ遠く、頭上には黒々とした空が広がっている。しんと静まりかえった空気に満ちた街中は、時間が動き出す前の世界のようにすべてが止まって見えた。

 

 走行する車の振動、タイヤが路面に擦れる音。小刻みに揺れながら後部座席に座る私は、中学一年生。時は1998年──。この日の眠りから覚めた12歳の私は、どんな表情で車に乗り込んだのだろう。

 

 数時間後には飛行機に乗り、目指すのは母の実家だ。

 

 空港へ向かう、飛行機に乗る。それはいつだって誰かが亡くなったあかし──。

 

 

「うおっ!」

 

 

 父が声をあげると同時に急ブレーキを踏んだ。その勢いでつんのめった私は、運転席の背もたれに思いっきり頬を押しつける形になった。痛い。

 

 

「猫だよ、危ねえ」

 

 

 どうやら車の目の前に猫が飛び出してきたらしい。

 背もたれから体を引きはがして、窓の外をちらと確かめてみる。無事に道路を渡り終えて歩道の先へと走り去って行ったのは、空よりも黒々としたシルエットを浮かび上がらせた黒猫だった。

 

 このとき助手席に座る母が「縁起が悪い」とつぶやいたようなつぶやかなかったような。

 

 どちらにしたって、あの漆黒の闇をまとった黒猫のようなカタマリが当時の私の心の中でも日々うごめいていたのは確かだった。

 言葉にしたくてもできない、自分自身でも明確な輪郭を把握できないカタマリ。言葉にしたとしても、一割すら正確に伝えられそうにない絶望と取り返しのつかない現状。

    自室にこもって岩のように微動だにしないと決め込んだ私を見て、あのころの母は「縁起が悪い」と思っただろうか。思われていても致し方ない。私も私自身を放りだして見限って、黒猫と一緒に走り去ってしまいたかった。

 

 1998年11月。中学一年生の二学期から登校拒否を始めて、2ヶ月が経っていた。

 

 

**********

 

 

 祖父が亡くなった。

 この5年前に亡くなった祖母と同様に、祖父との思い出も乏しい。直接本人に「おじいちゃん」と呼びかけたことがあるのかすらわからない。だから、「おじいちゃんが亡くなった」というよりも「お母さんのお父さんが亡くなった」という言い方の方が理解しやすいなあ、なんてぼんやり考えていた。

 

 祖父の葬儀のため母の実家には数日滞在したはずなのに、たどれる記憶はお通夜のみ。

    どういう経緯だったのか、弔問客に会葬御礼を手渡す役を任された。人見知りが激しい自分にはもっとも適さない役回り。それが急遽降りかかってきたものだから、動揺しないわけがない。親戚のおじさんと並んで家の庭に立ち、訪れるお客さまにひたすら頭を下げた。中学校の制服に久々に袖を通したこともあって、気持ちが落ち着かないままに。

 

 しかし途中で下腹部に違和感を覚え始めた私は、表情を歪めながら不安に苛まれていた。不安が増すほど違和感が痛みに変わっていく。そうなると、どうしようもないほどの暗鬱さと心細さに襲われた。慣れない土地で馴染みのないおじさんの横に並び、まったく知らない人たちに頭を下げている状況がひどく孤独に感じられたのだ。なんだか夜の暗さも東京とは異なる。今すぐにでも自分の家に帰りたくて帰りたくて…必死に辺りから目だけで探していたのは母の姿だった。

 

 弔問客の列が途切れたところで母の元へ駆け寄り、私は幼子のように彼女の袖を引っ張った。

 

 

「お腹痛い…」

 

 

    消え入りそうな声で伝えると、すぐさま家の中の誰も使用していない部屋へ案内してくれた母は、旅行バッグの中を探りポーチを取り出した。

 

 

「こういうときのためにちゃんと用意してきてあるから」

 

 

 お腹が痛いと伝えただけなのに、母が差し出してくれたのは着替えの下着と生理用品だった。

    恥ずかしさのあまりうつむいたまま声もでない。生理の周期など頭にないまま家を出てきた。しかも登校拒否を始めてからというもの、母とは睨み合い言い争いの毎日。このときばかりは停戦状態というだけで。

 

 結局母を頼るしかない自分、母に守られている自分、母の優しさに甘えている自分…。

 

 

    そして母が言う。

 

「大丈夫、大丈夫」と。

 

 

 聞こえてくる母の「大丈夫」が耳の奥でリフレインする。寒い冬の夜に飲むホットミルクみたいに安心する言葉の響き…。眠りから覚めるように、ここでプツリと私の記憶は途切れているのだった。

 

 

**********

 

 

 父の運転する車が、羽田空港の立体駐車場を下っていく。

 行きと同様に後部座席に座った私は、窓にぴたりと額を寄せて外の景色を眺めていた。

 

 母と停戦状態でいた間はいくらか萎んでいた黒々としたカタマリが、再び心の中で増大し元の大きさを取り戻していく。

 不意に助手席にいる母から学校の話を振られたため、一瞬にして全身がカッと熱を帯びた。今のは停戦解除の合図なのか、と少なくと0.01秒は殺意を込めた視線を母の後頭部に送ったと思う。

 

 しかし直後には、視界に入り込んできたフジテレビの建物に目を奪われていた。

 1997年にお台場へ移転したフジテレビの新社屋は、斬新なデザインで建物内に球体が組み込まれている。現在となってはすっかり見慣れた建造物ではあるけれど、はじめてテレビで目にしたときは衝撃だった。アニメの世界から飛び出してきたような近未来を思わせるメタリックなシルエット。一度見たら忘れられないほど強い印象を見る者に残す。

 

 建物から遠ざかるほどフジテレビ社屋の全体像を見渡すことができた。「レインボーブリッジを渡った先にあるのは近未来都市」そんなフレーズを思いついて憧れを抱く一方で、無性にわびしくなった。

 

 

 ──近未来。

 

 

 これから発展の一途をたどるであろうお台場と1秒先の未来をも思い描けない私の人生では、そもそも流れている時間軸の構造が異なる気がしてならない。

 

 

 ──どうやって生きていけばいいんだろう。

 

 

 帰りの飛行機。今回の母は涙を流していなかった。だけど、記憶の隅にずっとあった。母の言葉はずっとあった。

 

 

「亡くなった人はね、みんなこのお空の上にいるんだよ」

 

 

 窓を覗くと、機体の下に広がる真っ白なくもの膜。白が瞳を刺すようにまぶしい。チカチカする目でくもの上の青に目を向けた。

 着陸の時間が近づくほど機体の下には、連なる家々が見えてくる。家の数だけ人々の営みがあるのだとはわかっても、想像するまでには至らなかった。

 

 生きていた人たち、生きている人たち。

 どうやって生きてきたのですか、どうやって生きているのですか。

 

 大声で訊ねたかった。

 

 私はどうやって生きていけば、どこへ向かえば、どこを目指せば──いいのでしょうか。

 

 

**********

 

 

 中学一年生のときの私が空の上から大声で訊ねたかった迷いに、正解を見た日はない。それどころか毎年胸に抱いている。行き詰まってしまうような場面に限って浮かび上がってくる迷いでない。順調に歩を進めている場面でも喜びにあふれている場面でも、人は迷う。

 

 近未来を思わせるフジテレビのスタジオで、スポットライトを浴びながら歌うアーティストだって迷いを持っていただろう。

 

 腹痛を訴え不安げな表情を浮かべる娘に「大丈夫、大丈夫」と安心を与えようとしてくれた母親だって、きっと迷いながら生きていた。

 

 母が抱く迷いの核の一部に私(家族)の存在があり、私が抱く迷いの核の一部に母(家族)の存在がある。

 

 

 

 

    1998年──、この辺りの時期は手繰り寄せたくない記憶が多く眠っている。思い出と呼べる記憶がないからこそ、忌み嫌っていたい。私が母に向けた尖った言葉は思い出せないのに、母が私に向けた尖った言葉はこの先も記憶にとどまるのだろうから。ずるいけど、とどまるのだろうから。

 

   その分、忘れないでおきたい。リフレインする「大丈夫」を。父親との永遠の別れが待っている最中に、母が私に与えてくれた安心を。2020年9月の私が忘れない。