よく行く散歩コースの脇に池がある。
小さな池。
水辺が苦手なもので、あまり近寄ったことがなかった。池とか沼とか、ちょっと薄気味悪い感じがしてゾクッとしてしまう質なのだ。
だから「ああ、あそこには池があるんだなあ」くらいにしかこれまで認識してこなかった。
ところが一週間ほど前。
お昼ごろだった。
散歩の途中で野良猫のあとをふらふらついて行ったら、うっかり池の近くまで足を運んでしまっていた。いつの間に! と慌てて引き返そうと思いつつ、その日はなんだか興味を惹かれ池がある方へ自ら歩み寄って行ったのだった。
少し距離を置いた場所からでも、池を囲う木製の柵の隙間から見えるのは水面に浮かぶ無数の睡蓮の葉。一歩一歩近づいていくと、睡蓮の葉の緑で埋まる池の中央に、一際目立つ白が不思議な存在感を放っていた。
──ちょっとちょっと !睡蓮の花が咲いてるよっ!
興奮のあまり、「ふんっ!」と大きな鼻息がもれた。
睡蓮の花なんてあまり間近で目にしたことがなかった。いや、まったく目にしたことがないかもしれなかった。
珍しい光景を前に自然と小走りになる。
鼻息はさらに激しくなった。
もう周りが見えなくなっていた。
野良猫のあとを追うのと同じように興味のある対象が目に飛び込んでくると、ビクビク周りの目を気にしている普段の自分が嘘みたいに吹き飛んでいくときがある。
このときは、睡蓮の花へと一直線だった。
ところが柵の1メートルほど手前までやって来て、ふと足を止めた。先客がいるのに気づいたのだ。ポロシャツを着たおじさんが立っている。三脚に添えた立派なカメラのレンズを睡蓮の花に向けて、立っている。
急に冷静になった私は、足音を立てないようにそっとその場を後にした。
きっとあのおじさんは、今日という日を待っていたのだろうと思った。
あの睡蓮の花が咲く日をじっと待ち続けていたのだろう。
*****
昨日、再び池に立ち寄ってみた。
野良猫のあとを追ったついでではなく、自分の意志で。
睡蓮の花はどうなっただろう。
覗いてみたけれど、もうそこに花はなかった。そりゃそうだ。一週間も咲き続けたりはしないものね。
当然、おじさんの姿もなかった。
池へ立ち寄った帰りに私は、茶トラの子猫に出会った。
実はこの草むら、一昨年の夏も茶トラの子猫が寝床として使っていたのである。面白いくらい毎日同じ寝相でぐっすり眠っている子猫の姿を確認するのは、私の生活で楽しみのひとつだった。
昨年は自分自身も愛猫のステファニーも体調が優れなかったため、散歩を楽しむ余裕がなかった。ゆえに、茶トラの子猫が無事に成猫になったのかどうかわからぬまま時が経ったのだけれど……。
まさか今年も茶トラの子猫をここで見られるなんて! 先代にこの草むらを教えてもらったのだろうか。ああ、それにしても茶トラはかわいい。逝ってしまったステファニーも茶トラの猫だった。もう半年経つ。涙は枯れない。悲しみが半減することもない。猫といえば茶トラ! とかなり茶トラ贔屓している自分がいる。ステファニーの影をそこに映して。
時は経つ。
そんな現実がそこはかとなく虚しい。
時は経っていく。
だからこそそこはかとなく虚しくなる現実の中でも、確実な繋がりを見る。
草むらにいた茶トラの子猫を見て感激するのは、一昨年の夏があったから。茶トラの猫を特別にかわいいと感じるのは、ステファニーとの生活があったから。
池の前でカメラを構えていたおじさんも一週間前のあの日、感激していたのだろうか。睡蓮の花にレンズを向ける日が来た喜びを、ひっそり噛みしめていたのだろうか。
*****
今日も病院から帰る途中、草むらを覗いてみた。案の定、茶トラの子猫がくつろいでいた。まるで一昨年の夏がそのまま目の前にあるみたいだった。
けれど、時は経った。
確実に経った。
幸せに繋がる花が、各々の生活圏で今日も確実に咲いていたに違いない。