みちてる、みちてた。

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下血トラウマ〜難病編〜

✽もしも読まれるかたがしんどい気分になってしまったら申し訳ないので、重い話や血液に関する話を避けている方はスルーしてくださいねm(_ _)m


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*目次*

 

傷は後から痛みだす

 全速力で走っているときは、傷を負ったことに気づかない。気が緩んだとき、その痛さで倒れ込むという経験はないだろうか。

 

 かすり傷程度のものでも、倒れ込むまでに化膿させてしまっている可能性がある。時差を経てから「痛い」と口にしても、「今さら?」「演技でしょ」「そんなふうに見えない」と言われたら元も子もないから隠すのだけれど、隠せば隠すほど自分のあらゆる言動が人から怪しまれているんじゃないかと自意識過剰になっていく悪循環。

 

 私自身が「痛くて倒れ込んだ」夜を強烈に感じたのは、前回のブログでもちょこっとだけ触れた難病の自己免疫疾患ではじめて入院したさいの出来事だった。21歳のころの話だ。

 

yoshi-mi.hatenablog.com

 

 

2週間での退院が目標だった

 いくつかの検査をしたのち診断名がつき治療方針の説明がなされる中で、治療薬(点滴)の効果が結果として早くあらわれるようなら「入院期間は投薬してから最短で2週間」と医師から告げられていた。

 

 すぐさま私の脳内は「2週間」で埋め尽くされていく。最短の2週間で退院するつもり満々だっため、そりゃあもう優等生患者なみに慎ましく入院生活を送ったものだった。絶対2週間で退院するぞ!と身体にも言い聞かせ、治療薬を打つ前から「どんどん良くなる、ほらどんどん良くなってきた♡」と自己治癒力を高める念を体内に送る儀式(自己流)を早朝からおこなったりもしていた。

 

 前回も書いたが、検査入院という名目で入院しただけに長居する気はまったくなかったのだ。ゆえにベッドの頭の上に掲げてあるホワイトボードに貼られた【禁食】のマグネットも、すぐに外されると甘く見ていたのである。スプーンやフォークなどをきっちりそろえてきたにもかかわらず、結局絶食状態は3ヵ月続くのだけれど…。

 

 それはさておき、1回目の点滴投与日。

 副作用も特に出ず、さらりと終了した。投与したその日に効果が出るわけではなく、2週間くらいかけてじわじわ結果が出てくるらしい。だから最短で2週間と医師は私に告げたのだ。

 励ます気持ちもあったのかもしれない。「次回の点滴は外来でできるといいね」とも言ってくれた。それに対して、「あたいは絶対外来でできるようにしたる!」と心の中ではメラメラ炎を燃やしていた。もちろん野心は隠して、病室では余裕のある患者という体裁を保っていたのである。

 

下血が世界を一変させた

 事件が起きたのは、点滴投与から2〜3日後のことだった。治療薬の効果とともに自己治癒力を信じてやまなかった私には、まだ余裕があった。

 点滴投与の翌日におこなった血液検査で、「白血球の数値が若干高くなっています。これはストレスでも上昇するものだから、ハナさんはテレビでも観てゆったり過ごしていてね」と医師が言葉をかけてくれたのを覚えている。「はい」と口では答えたものの、「白血球めっ!」と内心では白血球とストレスを呪っていた。

 

 正直入院生活はストレスの塊でしなかった。

 具体的なことはいまは割愛するけれど、入院する前から日記に「情けない」「自信がない」「死にたい」などと書いている日々にあった私は、人と関わる気力を持っていなかった。

 そのため入院中に医師や看護師にどんな態度で接すればいいのかわからず、「具合はどうですか?」と訊かれれば「大丈夫です」としか返事ができないほどコミュニケーション能力が欠如してしまっていたのだ。2週間後には退院するのだから、コミュニケーションなんて必要最低限でいいといった考えもあっただろう。

 

 話を戻す。点滴投与から2〜3日後の話に。

 夜中にトイレへ行ったとき、わずかに違和感があった。流した水が赤黒かった気がして。(下の話で恐縮だが、絶食状態であっても便は出る)しっかり確認したわけではなかったものの、なんとなく嫌な予感が皮膚にまとわりついた。まあでも、次にトイレへ行ったとき流す前にちゃんと確認すればいいか、と考えてその夜はベッドへ戻ったのである。

 

 翌日の午前中、出血しているのをトイレでしかと確認。じゃあやっぱり夜中も出血してたのかなとベッドで横になりながら悶々としていると、1日3回病室を回ってくる看護師が昼の検温のために私のベッド脇までやって来た。このとき患者は看護師から、尿は? 便は? とトイレへ行った回数や「下血はしていませんか?」などの事情をいろいろ確認されるのである。

 

 出血したことを告げたら退院が延びるのではないか。あのとき頭の中で懸念していたのは、退院延長のことばかりだった。

 しかし打ち明けるならタイミングは今しかないと思い、

 

「あの、すみません、下血? をしてるかもしれなくて……」

 

 と悩みを打ち明けるような小声で看護師に伝えるなり、彼女がハッと見開いた両目でこちらを振り返った。明らかにこの瞬間に空気が引き締まったのを肌で感じ、おののいてしまった私の身体は完全に硬直した。

 

「どれくらいの量の出血ですか?」

「コップでいうと1杯とか半分とか」

「で、量はどれくらいだったんですか?」

 

 とにかく出血の「量」を教えてくれと看護師は言っているらしいのだが、罪を責められているように錯覚した私は硬直が解けないままだった。冷静に!  とトイレでの記憶を振り返るも、あいにく便器には目盛りがなかったし、量のことなど考えてもいなかったために口を開いたまま思考回路がショートしてしまったのだった。

 

 代わりに涙がポロポロこぼれてきて、気づけば何人もの看護師がベッド脇にやって来ていた。そして周辺がバタバタし始める。主治医が押す車椅子に乗せられて緊急のCT検査がなされた。

 病室に戻るなり、それまでは腕に刺した点滴針から栄養を摂っていたのを、鎖骨辺りからカテーテルを通して24時間点滴を流す中心静脈栄養に変えると言われた。

 採血をされ、そのあと輸血をした。「しないと死んじゃうから」と言われたとき、なぜ看護師が毎日「下血はしていませんか」と確認してくるのか、その重要性に身を持って気づかされた。指には24時間酸素濃度をはかる機器もセットされた。

 

 そしてさらに主治医から告げられたのは、「絶対安静」だった。ベッドの範囲から外へ出てはいけない、というもの。腸からの出血箇所を刺激しないためには、身体を動かすのも極力避けなければならないのだ。

 朝まで普通に歩いていたのに、売店まで『TVガイド』を買いに行っていたのに、自分の足でトイレに行っていたのに、夕方には「絶対安静」を指示されトイレはベッド脇に置かれたポータブルトイレを使用する他ない状況が待ち受けているとは夢にも思わなかった。

 

 入院期間中は、透明人間でいたかった。学校の教室内と同じように、目立ちたくはなかったからだ。なのに、下血してしまったばかりに看護師がずらりとベッド枠を取り囲むほどの大事を招いてしまった。

 それだけでも恥ずかしいのにポータブルトイレで用を済ませ、そのたびにナースコールで知らせなければならない。「トイレに行きたい」すら幼いころから恥ずかしくて言えなかった口で、毎回トイレの終了を伝え処理してもらわなければならない屈辱と申し訳なさがないまぜになっていく。

 

 いったい私はなんの罰を受けているのか、と悲しくなった。どうしてこんなことになってしまったんだろう……と入院する前から抱いていた情けなさが一層増した。

 「絶対安静」は出血が止まるまでらしいのだが、1週間程度は解除されない見込みだった。

 

 しかしこのときの1週間で、落ち込んでいたのは初日くらいだったように思う。「ちくしょー……」と嘆きつつ、退院したら食べたいものや行きたいところをノートに列挙して気分を高めようと心がけていた。この期に及んでも早期退院に執着していたのだ(笑)

 気が張っていたせいもあった。まだ自分の病気すらよく理解してなかったけれど、とりあえず目の前の現実を乗り越えなければどうにもこうにもならないのだからどうにかするしかないだろう、と。

 

下血トラウマが発動から鬱になる

 ゆえに問題は、「絶対安静」が解除された日の夜から始まった。

 自分の足でトイレに行ける自由を取り戻し、喜んでもいいはずなのに心は晴れるどころが霧で視界不良になっていた。

 消灯時間を迎えて枕に頭を沈めるなり、「また下血をしたらどうしよう」という不安がぐるぐる頭を回り始めた。

 

 下血したら量はどう伝えればいいのだろうか。再び看護師がずらりと集結するのだろうか。主治医が慌てて駆けつけるのだろうか。ポータブルトイレの日々に戻るのだろうか。この先の人生、頻繁に入院してはトイレの回数を毎日訊かれ、大部屋でも構わずポータブルトイレを使用していかなければならないのだろうか──。

 

 いたたまれなくなった。次第に動悸が激しくなっていく。見開いた目を閉じるのがこわくて、じっと天井を見つめたまま「下血したら、下血したら、下血したら……」と脳内でバグを起こしたように、下血への恐怖心に全身が支配されていった。

 病室を回ってくる看護師に「下血はしていませんか」と確認されるとき、「していません」と堂々と答えられない自信のなさから虚脱してしまいそうだった。

 

 あんなに早期退院に執着していたのに、突如としてどうでもよくなった。なぜなら、死ぬ方法をシミュレーションするのに執着し始めたからだった。「死」こそが希望のごとく唯一光って見えたのだ。

 気分の落ち込みは日頃からよくある方だった。しかしこのときの鬱状態は強烈だった。同じ状況の人が目の前にいても、どうしたらいいのか正直わからない。「世の中すべてが正解であり、すべてが不正解」といった言葉が浮かんでは虚しくなるのだ。

 

病気からの学びは多面のうちの一面

 このあと主治医から特別外出許可を得て家に戻ったり、「病室にいてもメールするくらいならここは大丈夫だよ」と薬剤師から教えてもらったりして徐々に鬱状態から脱していった。

 医療従事者の方々からのお力添えと母親に支えられて、3ヵ月半の入院生活を耐えられたと感謝している。

 

 入院生活で一番しんどかったときの話だけを書くとしんどいだけの3ヵ月半みたいに見えてしまうけれど、実際は笑ってしまうくらい面白い出来事も稀に起こっていたのである。

 

 だからといって、「病気を経験してよかった」「病気になって学んだことがたくさんあるから感謝している」と超絶前向きに捉えられるほど、病気への寛容さは持ち合わせていない。このときの経験や学びがプラスになり社会に出ていく決心に繋がったのも事実ではあれど、多面のうちの一面。

 いまだにちょっと下腹部が痛んだりすると、「傷ができているのでは」「下血したらどうしよう」と思ってゾッとするし、腹筋すると腸が裂けるんじゃないかとヒヤヒヤするのだから。

 

 どこかで吐き出さないと、自分に首をしめられていきそう。なかったことにしようとして、なかったことにはならない記憶があるからしんどくなるのに。

 

 またここで解放させてください。。。

 

 ✽自己紹介記事⬇

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