歳を重ねてわかる事実は多い。なんとなく「気づき」はじめて頭に「?」が浮かんでいても、紙に書いたり口に出して「?」を自分と結びつけてしまったら取消せない恐ろしさがある。だから日記は破り捨ててきた。残してきたのは、抽象的な出来事と感情。「私」と書きながら、「私」ではない感覚。
— 芳-hana- (@yoshi_mi24) 2021年3月8日
それをちょっとずつ崩している。カウンセリングで吐き出して解き放たれつつ身体の一部をえぐられるような、両極端を実感しながら。もう35歳なんだけど。ここまで来てぐらぐら不安定に揺れているなんて、恥ずかしいけど。再確認しています。#アダルトチルドレン
— 芳-hana- (@yoshi_mi24) 2021年3月8日
自分の心の中では何が起こっているのか。トラウマに関する本を立て続けに読み探ろうとしていたのだが、ちょっとそれどころではない現実が目の前にある。生活していかなければならない現実がある。また底が尽きる現実がめぐってきてしまう。
父が亡くなった直後は「生と死」についてばかりが、頭をぐるぐる回っていた。
けれども正直なことを口にすれば、父がいないこの数年は金銭的な不安に脅かされずに生活ができていた。家の中にいてハラハラソワソワしなくていい。足場がある程度安定している日常の生きやすさ。「命」とはなんなのかを考え心が乱れる一方で、「生きやすさ」とか感じちゃっている娘。
ホッとしているなんて言ったら、サイテーでしょ。
サイテーだってわかっているから、父との思い出や死の間際の姿を思い出して涙する自分が汚たない人間のように感じられて気持ちが悪いんだよね。
いい意味でも悪い意味でも、父の存在はやはり大きかった。
そして母の存在はそれ以上に大きい。
知っていたんだ。
母には敵わない。
母がしてきた苦労に比べたら、私の苦悩なんて米粒みたいなもの。
でも、お父さんと結婚したのは私じゃないから。お母さんなんだ。責めたいわけじゃない。切り離して考えたくて。
母は母。私は私。
そうやって考えないと、どちらも息苦しいだけだよね。
ごめんね。
次へ行かなければならない。次がどこかわからないけれど。いまだにわからない。コロナ禍とか関係なく、ずっとわからない。空っぽな気がしてならない。家族みんなで働いていても立て直せなかった、「生活」ってなんなんだろう。「生活」していなかければならない「現実」ってなんなんだろう。
切り離したいって言ったそばから、私は私の「生活」と共に母の「生活」に彩りを添えたい。
だけど切り離さなきゃ。
切り離さなきゃね。