こんばんは!
と挨拶してみる。
誰かに向けて書いているみたいに……そういうスタンスに憧れつつ、宙に向けた大声が頭上からポロポロ降ってくるのを自分自身で受け止めたり受け止めなかったり。
以前、河合隼雄さんの本に影響を受けて「日本神話」に興味を持ち始めたと書いた。
「古事記」や「日本書紀」がわかりやすく解説されている書籍を読んで、「へぇ〜!」「ほぉ〜!」などと感嘆しながら神話の流れをノートにまとめていた。
ヤマトタケルが力尽きたところで、ずいぶん感傷的になった。ひとまずヤマトタケルのところまで流れを知ったら、次は日本史の勉強に移行しようと考えていたため、私自身も力尽きたかのごとくポカンとなっていた。
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お恥ずかしい話、学校で何を学んできたのかというほど私には授業内容の記憶がない。小学校に入学し、はじめて国語の教科書を開いて感動したのは昨日のことのように覚えているのに。せっせとノートに書き写していた黒板の文字、全教科あの内容がなんだったのかびっくりするほど覚えていない。
代わりに体育の記憶に関して言えば、「あのころは…」と地獄にいた時代を振り返るように思い出せるのだからなんとも忌々しい!
そんなんだから、成人してから後悔と焦りに見舞われた。中学生向けの参考書を買って巻き返そうとしたものの、勉強の仕方がわからなかった。ホントに、どこをどう歩んできたのか学生時代💦
もしかしたら今回学んだ「日本神話」も、タイヤの空気が抜けるように頭から知識が抜けていくかもしれない。
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神話を「ひとまず」と区切ったタイミングで現実に引き戻される出来事というか、違う、なんだかもう子どものころからずっと同じ壁が定期的に立ちはだかってくるから悩んでいるのだ。
命が永遠にあるものだとしたら、私はこの壁が立ちはだかる道を延々とループするんじゃないかと虚しくなる。
抜け出そう考えたのは、ちょうど10年ほど前だった。10年後の私は、抜け出したところで希望もなんもないではないかとぼやいている。虚しい。ただただ虚しい。
抽象的なことをつらつら書いてもメモの代わりにすらならないとは、わかっている。「虚しい」が占拠するやりきれなさは、喜怒哀楽とは異なり自分としか共有できないから孤独の殻が厚くなっていくのもわかっているんだけれども。結局は、具体的に書くのがこわい。たとえメモであっても、書いたあとで破り捨てるとしても。紙にインクをにじませた時点で、罪深い気がしてならない。
この件に関しては、現在カウンセリングで話を聞いてくれている心理士さんとは違う、クリニックにいらっしゃるもうひとりの心理士さんとも面談することになるかもしれない。
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日本史に手をつける前に、「トラウマ」の情報に寄り道している。カウンセリングを受けてきた中で「アダルトチルドレン」のワードが出てきて以降、家庭環境やトラウマのことも知りたくなったのだ。
親や身内から虐待を受けたり罵詈雑言を日々浴びせられた経験は私にはないが、家の中にいても安心感の欠けた不安と緊張から逃れられなかったのは事実としてある。
それを具体的に書こうとすると、まるで両親を非難しているようになるからこわいのだ。責めたいわけでもなんでもないのに、責めているように伝わるのがこわいから私は家族の目を直視できない。他人とは目を合わせて会話ができても、家族の目はそらしてしまう……。
私が怯えている対象は、外の世界だとばかり思っていた。けれど見慣れた居間や廊下や台所……見慣れた過ぎたゆえに違和感が浮かんでくるようになった。
最後まで抽象的なこの文章を読んでくれた人がいるならば、心から「ありがとう」を言いたい。宙に向けた大声を誰かが偶然聞いていたら、恥ずかしい反面やっぱり嬉しいものだから。
ではでは、おやすみなさい!