みちてる、みちてた。

ここにいるのにここがどこだかわからなくなるから、書き留めています。Twitter→(@yoshi_mi24)

抱きしめてあげたい。


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 赤ちゃんは総じて「かわいい」。いや「愛らしい」の方がしっくりくる。理由を探すまでもなく。「赤ちゃん」と聞いただけで、頬が緩む。

 

 人間の赤ちゃんを「愛らしい」と思えるようになったのは、いつからだろう。はっきり覚えていないものの、10代のときはそんなふうに捉えられなかった。母性本能はまるで発動しなかった。

 

 赤ちゃんは総じてかわいい、ものである。という概念を覆す赤ちゃんをひとり知っていた。

 私だ──。

 赤ちゃんのころの私。写真を見て、「かわいい」とはちっとも思えない。写真から得られる情報は姿形だけ。つまりは、顔の造形を見て「残念やな」と思ってしまう。はじめて写真を見た日も同じ感想を抱いたのかは、定かではない。

 

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 私が「産まれる!」というとき、家族の誰にも連絡がつかなかったらしい。冬の早朝のこと。その時間帯に他の家族はみんなきっと、まだ眠りの中にいた。

 

 幼い私は父親似で、「お母さん似ね」と言う者に対して「どこが!?」と当時の母が言い返していた心の声は、時代を跨いで成長した私の耳に入った。

 ちょっと母さん心の声が時空を超えてだだ漏れてますよっ! と忠告する勇気を持てなかったのは、そのときにはすでに自分自身に自信がなかったからなのだろう。小学生のときにはすでに。性格も容姿も総合的に自信がなかった。コンプレックスだった。何より私には「可愛気」もなかった。敵視するような目で周りを見ていたのもよくなかった。父親似の一重まぶたがかぶさる目で。

 

 親、小児科の看護師、学校の先生、近所の人々、1日しか接点がなかったどこかの誰か……。大人は案外、子どもにさらっと意地の悪い面を見せる。

 成人した現在でも「大人がこわい」と無意識に考え、苦手なタイプの人を空気で察知できる。敵視する目を今でも隠し持っている。できれば表には出したくない。

 

 しかし、私も彼らと同じことを思ってきた。「かわいくない子」と自分を見て思うのだ。そしてそんなふうに思う己はもっと醜いと感じる。彼らと同じ目線で生き、人の容姿に優劣をつける人間になっているのではないかと。憎悪は他人や社会などの外側ではなく、自身に対して宿っていた。敵視する目は自身の心に向いていたのだ。内側に、ずっとずっと。

 

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 赤ちゃんは総じてかわいい。いや、愛らしい。邪念なくそう口にできるようになったのは、受け入れてくれた人と過ごした時間を経たからであり、一部の過去と折り合いをつけられたからだと推測している。つまりは、空虚だった穴がひとつふたつ満たされたゆえにギスギスしていた精神に余裕が生まれた。

 

 けれど赤ちゃんのころの自分に関しては、どうしても「かわいい/愛らしい」などとは思えずにいた。

 

*****

 

 一転して、昨日のことだった。

 赤ちゃん時代の写真の自分と目を合わせたら、涙がこぼれてきた。この子を抱きしめてあげたい、と思った。はじめてそんな気持ちを抱いた。

 急にどうしたのだろう。何が起きたのだろう。うまく説明できないが、抱き寄せたくなったのだ。

 姿形が「かわいい/愛らしい」からではない。だけどしっくりくる言葉が見つからない。いやいや、しっくりくる言葉なんて見つけられなくてもいいのである。あらゆる感情を言葉で表そうとしなくてもいい。「抱きしめてあげたい」とはじめて思った。それ以上の感想を探そうとしたら、嘘になってしまうから。

 

 今日も昨日と同じ気持ちが胸にある。もしかしたら、明日にはなくなっているかもしれない。だから書き留めておきたかった。