みちてる、みちてた。

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『その落とし物は誰かの形見かもしれない』/せきしろ(2021.7.30)

 どんな道にも落とし物はある。

 「ああ、誰かが落としたんだなあ」

 胸の内で一言つぶやき、大抵はスルーしてしまう。落とし物の代表選手と言ってもいいあの軍手が、なぜに「代表選手」にまで成り上がったのかサクセスストーリーが気になると思いつつも目の前に落ちていたら、「ああ、また誰かが落としてる」で終わらせてしまう。

 

 しかし、作家で俳人せきしろさんは違う。

 

 私はどうするのかといえば「想像する」に尽きる。たとえば「この手袋は誰かの形見かもしれない」と考え、思い込んでみるのだ。

 するとさっきまでただの手袋だったはずなのに、大きな意味を持ち始める。故人が大切にしていた手袋に見えてきたり、故人との思い出の品に思えたりしてきてドラマが生まれる。しかもそれを落としてしまっているのだから更なるドラマが追加される。私は頭の中で勝手に物語を進めていく。

 

(P1 まえがきより)

 

 今年の4月に刊行されたせきしろさんの『その落とし物は誰かの形見かもしれない』は、落とし物の写真と共にそこから想像を膨らませたせきしろさんにしか語れない物語が綴られている。

 

 

 

 

 

 とても面白かった。

 軍手やら願い事が書かれた短冊やらベルやら……。現実にこんな落とし物ってあるの!? と驚くようなものまで落ちている。そこにから派生するせきしろさんの想像力が素晴らしい。落ちているアロンアロファについて「文枝師匠でなければ誰が落としたというのか」だなんて、その他の選択肢は考えられないとばかりにもう想像の域を超えているんだもの。

 「ああ、誰かが落としたんだなあ」で終わらせていたこれまでの自分を非常に残念に思う。

 本書の中で著者が言うように「道に落ちているものには少なからず悲哀がある」ゆえ、家に帰ってからも映像として頭から離れない落とし物があったりする。だからそういうときは無意識に私たちも、背景にある物語を見ようとする力を働かせているのではないだろうか。

 

 以前せきしろさんと又吉直樹さんによる『カキフライが無いなら来なかった』について記したさいと同じ文言を書きますが、『その落とし物は誰かの形見かもしれない』も同じく「どうしようもなくこの本の世界に浸り、しばらく戻りたくない」感覚に読後陥りました。ほろっときて笑えて、でもまた泣けてきちゃうのは涙腺が緩くなったせいではないはず……。

 

✽詳しくはコチラ⬇

yoshi-mi.hatenablog.com

 

 夏休みの宿題で「読書感想文」と「落とし物想像文」を選択できたら、なんだか楽しそう。同じ落とし物を眺めていても一人ひとりの想像は異なるから、無限に物語は生まれていくんだろう。 

 

(2021.7.30:読了)