みちてる、みちてた。

ここにいるのにここがどこだかわからなくなるから、書き留めています。Twitter→(@yoshi_mi24)

ひとりで行く墓参り。


 12/28(火)【大安】。

 はじめてひとりで墓参りをしてきた。



 35歳にして「はじめてのおつかい」気分を味わう。

 父が亡くなってからは、母と2人で電車とバスを乗り継ぎ行っていた。ここに記すのがはじめてながらさらっと話すが、私にはきょうだいがいるので、時に3人で行くこともあった。


 昨日も母と共に行く予定だった。

 お互い身体が思うように動ないため、コンディションを合わせるのも難しくなっている。

 昨日は寒さも加わり母がダウンしていたので墓参りそのものを中止しようと考えたが、よくよく思えば家族そろって墓参りに行かなければならない決まりなんてないのだ。

 幼いころから家族みんなで行く習慣があっただけで、もうそれぞれが大人なのだから一人ひとりが自由に行きたいときに行けばいい。そんなことに、昨日はじめて思いあたったのである。


*****


 バスの窓から見る景色が寂しい。

 父の運転する車で通っていた道のり。何度も家族で通ってきた道のりを、まったく知らぬ人たちと同乗するバスから眺めている不思議。霊園まで連れて行ってくれた父が、今では霊園に眠っている違和感。


 複雑な思いの丈を抱えながらバスを降り、霊園の敷地内に足を踏み入れると、そこに一匹の猫がいた。

 父への思いの丈など一瞬で吹き飛ぶ、猫の可愛さたるや。まだ幼さが残る顔をした子猫だった。

 猫の後を追っているうちに他人の家の墓の前に辿り着いてしまい、本来の目的を思い出す。


 しばらく墓参りに行けていなかったが、我が家の墓は綺麗に保たれていた。

 それでも周りの草をむしり、墓石をみがき、花と線香を添える一連の作業には体力がいる。

 母も私もここまで来る体力がなくなったらどうしようか、と最近よく考えるものだ。そもそも「墓」とは何か。それも最近よく考える。私は子供を産まない。残念ながら子孫は残らない。だから、考える。


 墓石の前で手を合わせるころには、一仕事終えた感覚があった。真冬でも、身体が火照る。

 ──祖父よ、祖母よ、父よ。

 私はどうにか生きていく。だから母を見守っていてほしい。



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*****


 帰りのバスを待つベンチ。隣に腰をかけていた女性が話しかけてきた。


「今日は日がいい日で本当によかったわね」


 70代くらいだろうか。紫の毛糸の帽子がよく似合う婦人だった。


「そうですね、天気いいですもんね」


 突然話しかけられると動揺する。

 しかし相手は、私が会話の苦手な人間だと知る由もないのだ。だから相槌をうつ声をスムーズに出せただけでもホッとしていたら、


「今年の大安は今日が最後でしょ。だから来れてよかった」


 と婦人は話す。

 そうか。「日がいい日」ってそういうことか。てっきり天候のことだと思っていた私の口からは、「そうなんですか!」と心からの返事が出た。今日って「大安」なのか、と。「墓参り」と「大安」の相性がいいのかどうかは知らないが、「大安」の響きは1日を照らしてくれるような気がするから好きだ。


 その後も婦人との会話は続いた。

「家でひとりだから、私は誰にでもこうやって話しかけちゃうの。ごめんなさいね」

 最後には婦人から詫びられた。


 もしも母と2人で来ていたら、この婦人が私に話しかけてくることはなかったかもしれない。

 そう考えると、誰かとのご縁に繋がる場面に出くわす過程には、日々の細かな選択が関わってくるのだろう。婦人との会話は、そんな実感を得た一時だった。それとも、「日がいい日」だったのが関係していたのだろうか。猫にも会えたし。


 今年最後の「大安」。

 うん、なかなかいい日だった。