それなりに現在を「幸せ」だと感じられている。
きつかった、この2〜3年間。
ひきこもっていた時期は4年間。最初の1年は喜怒哀楽がないと言ったら嘘になるかもしれないけれど、希望もなければ絶望もないような妙な時間の中にいた。
衣食住の隙間に「希死念慮」が滑りこんでくるんじゃない。基盤としてある希死念慮の上に、衣食住が乗っかっているみたいな。ガタガタな生活だった。綱渡りしているかのように。愛猫が死んだとき、なんかもう……「ああ、なんかもう……」って未来を生きるのが嫌になった。過去に帰りたくてたまらなくなった。過去のことばかりが頭に浮かぶ。嬉しいことも嫌なことも。嫌なことがあっても傍らには猫がいた。愛すべき猫が毎晩私の足もとで寝ていた。そうした過去に戻りたい。遠ざかっていくばかりの記憶の元へ行きたい、と。
それなりに現在を「幸せ」だと感じている。痛みを忘れたわけではない。遡れば愛猫の死よりも遠く遠くの昔に怪我した箇所が、今でも疼く。
けれど、それなりに現在を「幸せ」だと感じている。
ひきこもりから抜け出したからじゃない。ひきこもりから抜け出したい意思が芽生えた先で出会えた人たちに恵まれた、と誰かに指摘されたでもなく自ら思えるからなのだと思う。
美談やポジティブで前向きな話を書きたいわけじゃないよ。無理矢理「幸せ」と言い聞かせているのでもない。
変わらず気分の変動は起こるし、不安や後悔をズルズル引きずる傾向は健在だ。
それでも、なかなか「楽しい」日々が現在にあるよ。
「おはようございます」
「おつかれさまでした」
言い合える人。
ありがとう。
ブログを読んでくれる人。
スターをつけてくれてありがとう。
Twitterをたまたま見つけてくれた人。
「♡」押してくれてありがとう。
こんなにたくさんの「ありがとう」に包まれていても、寂しくてたまらない瞬間がある。
またひとつ年を重ねる日が近づいてきた。
でも確実に言えることがある。
一昨年よりも昨年よりも、現在を楽しめている。だったらいいじゃないかって。
思っている。