みちてる、みちてた。

ここにいるのにここがどこだかわからなくなるから、書き留めています。Twitter→(@yoshi_mi24)

子宮には戻れない。


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 2月にカウンセリングをキャンセルして以降、新しい予約を入れていない。

 そのちょっとした経緯はコチラ(⬇)に記した。



yoshi-mi.hatenablog.com



 治療をしたい、生まれつきあるかのような不安感を払拭したい気持ちはもちろんある。

 しかしそれ以上にただ話を聞いてほしかったのだと気づいた私は、経緯を記した記事の中で「聞いてもらったあとで、ギュッと抱きしめられたかった。いくら自分で自分を抱きしめても、満たされない癒やされない、他人の温もりを分けてほしかった。」とも書いている。


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 そんな折、昨日You Tube内である動画を見つけた。見つけた、というか「新しい動画の内容はなんだろう」と普段から気にかけている、精神科の医師が立ち上げているチャンネルがあるのだ。


youtube.com


 配信しているのは、「早稲田メンタルクリニック」院長の益田裕介氏。

 こちらのクリニックを受診した経験はないけれど、毎回配信では精神疾患についての解説や診察とカウンセリングの違いなどをわかりやすく説明してくれている。

 また、動画の概要欄をクリックすれば益田院長が解説していた内容が文字起こしされているため、文章で説明された方が理解しやすいという方は、そちらを読んでみてほしい。


 で、昨日私が見つけた動画というのが、益田院長のチャンネルでアップされていたコチラ(⬇)である。


youtu.be


 「私は泣きながら親身に話を聞いてもらいたいだけ。」のタイトルを見た瞬間に、ドキッとした。だってその下に「これ、危険です。」の一文がついているんだもの。


 つい先日私がブログに記したばかりの思いの丈には、もしや危険な方へ向かって突き進んでいる兆候が潜んでいるのでは……と動揺した。


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 動画内では、幼いころに泣いている自分を親が慰めながらギュッと抱きしめてくれた経験があるひと、そんな経験なかったわというひとでも、赤ん坊のころ親ではないにしてもそうしてくれた存在がいたからこそ私たちは今を生きている、といった話がされていました。


 そのような子どものころに戻りたくなる願望を「退行」と言い表すそうです。


 しかしその願望を医師やカウンセラーに向け、密接な関係を望んでくる患者を許容するのは、治療上よろしくない。

 私の文章では誤解が生じる恐れがあるので、興味のある方は益田院長の解説をご覧になってください。


 とにもかくにも、病院やクリニック、カウンセリングへ通うのは治療が目的であり、転んだら手を差し伸べてもらう時を期待するのではなく、自ら立ち上がれる力を取り戻すor技術を習得していこうとする心持ちが大事になってくるのでしょう。

 ★患者が苦しんでいる疾患や症状により対応策が異なるのかもしれません。専門的なところまではわかりかねることをご承知ください。


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 改めて私は自分の「ギュッとしてもらいたい」願望について、考えてみた。


 正直に言えば、医師に長年の悩みを打ち明ければ自分では探せなかった道へ導いてもらえるのでは……という期待くらいは持っていただろう。

 通い続けるうちにそんな都合のいい展開は起きないと覚ったが、カウンセリングを受け始めたとき、再び同じような期待を抱いたのは否定できない。


 これまで口にするのも文字にするのも罪悪感があった親に向けていた感情やどこにいても笑われているような、煙たがられているような疎外感を覚えるきっかけになった要因を打ち明けたときはスッキリした。

 しかしその状態は、長くは続かない。かたく閉ざされたシャンパンの栓が抜けたときこそ快感を得たが、直後に次から次へと溢れ出てきたのは憎悪や苛立ちや希死念慮だった。


 苦しくて苦しくてたまらない。認知行動療法なんてどうでもいい。心の鎮痛剤があるなら打ってほしい。ないなら、誰か抱きしめてよ……。会話はいらない、抱きしめてなだめてください。頼むよ、神様。しんどい、コレが来る夜が。


 突如襲いかかる荒波。

 ホントしんどかった。ブログに下書きを残しては、冷静さを取り戻したときの自分が削除していた。


 おかげさまで、現在はめったに荒波には襲われない日々を過ごせている。理由は、


・就労継続支援B型事業所へ通所し始めた。

・読書、散歩以外の趣味ができた。

 ①絵を描く

 ②刺繍


 が大きいと感じている。

 適度な緊張感、挨拶だけでもいいから人と言葉を交わせる場所、集中できる時間、楽しい時間を持てたことが私の場合はいい刺激になった。


 それでも、寂しさは埋まらない。

 だから「話を聞いてほしい」「ギュッとしてほしい」願望に終わりはないものの、心療内科の医師やカウンセリング担当の心理士に「解消して!」と求めているわけではないし、「そういうもんだよね」と人類共通の願望として俯瞰することにした。


 それから強く思うのは、「ギュッと抱きしめてほしい」と願っているのは現在の私ではなく、子供時代の私なのだ。

 あのときあの瞬間、大人に抱きしめられたかったと。たとえば理想の父親的なひととか、学校の先生とか、学校の先生とか、学校の先生とか。(しつこい。笑)


 もう叶えようがない。時は戻せない。やり直せない。益田院長の言葉を借りると、「子宮には戻れない」。

 納得する。納得いかなかった時期があった上で、今は納得している。


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 急に話が変わるけれど、私は占いが好き。だから占い関連の動画もよく観ている。

 時に、「長年の夢が近々叶いそうです」なんて言われ一瞬は舞い上がるも、それが叶わないことをもう知っている。


 半ば本気で叶うと信じていた時期があった。

 名前も容姿も性格も、何かを機に生まれ変われると。

 笑われるかもしれない。馬鹿にされるかもしれない。でも、信じていた。信じたかった。根拠はなく、叶う瞬間のシチュエーションも想像できないのに、変容する日が来るのを心待ちにしていた。期待していた。奇跡的な力が発生するのをじっと。


 「私は私」と言い聞かせながら、いつでも「お前(私)なんかとは縁を切ってやれる」んだぞ、なんて見下していた。


 残念ながら、「私以外私じゃないの」(ケズの極み乙女。より引用)よね。明日も明後日も、死ぬまで「私以外私じゃない」現実は続く。


 ところが面白いことに、絵を描いたり刺繍を始めたりしてから、「残念ながら」という前置きがなくなった。

 相変わらず名前を呼ばれる嫌悪感はあるし、瞼を二重にできるならそりゃあしたい。

 けど、なんていうか、表現が難しくて困るが、自分の時間に集中し尚且それが楽しいと「あれ? 私ってこれまで何をごちゃごちゃ悩んでたのかしら」と希死念慮に襲われていた夜さえ嘘みたいに記憶から遠ざかっていく。


 変なの。

 単純なのか、複雑なのか、自分で複雑にしてきたのか。

 ホント、なんなんだろうね。なんなんだろう。

 そしてこれから私は、何を夢に掲げていこうか。


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 こんな読みづらい長文を最後まで読んでくれた方がいらっしゃったら、感謝申し上げます。

 不安障害との闘いはまだ続くだろうし、「ギュッと抱きしめてほしい」って今後も寂しくなったらつぶやくと思います。

 頭の中での独り言も止まらないままです。(ADHDの特性なのでしょう)


 沈んでは回復し、沈んでは回復しを繰り返してきたから、現在の状態を楽観的には捉えていません。

 でも、集中している時間を楽しめているのだから、いい意味で楽観的になる日を作ってもいい気がしています。


 とか言って、次の更新記事が地獄のような絶望に浸っていたらどうしよう。笑


 読んでくれた方、ありがとう。